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実顕地一つの運営(11)


実顕地一つの運営(11)

「研鑽会にしていく」とは?
自分がこだわっていることに気付く

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「研鑽会にしていく」とは?
自分がこだわっていることに気付く

「日常ささいな出来事を題材に研鑽会にしていく」というテーマで1ヶ月やってきました。今まで、「ささいなこと」として自分の中で止めていたようなことも出しやすくなってきた、いろいろな例が出て活発な研鑽会になってきた、というような声も聞こえてきます。各実顕地でも具体的な例を出し合いながら研鑽されているようですが、そんな様子を紹介したいと思います。

年々時期が早まる年末美化での出来事、ボードには美化のお知らせとともに「食事は用意されません」と書かれていました。食生活部からは、「年末美化の日の食事は用意しません」ということで出されたことが、お知らせの書き手は食生活部の人ではなかったので、このような表現になったそうです。このインパクトのある表現も手伝ってかその後、「それぞれで食事を作ったらいいのか?」「食材の用意から一人ひとりやるのか?」などから始まって、職場や各研鑽会で大きな話題となったそうです。

ある実顕地では愛和館のメニュー板のことが話題になっているそうです。特に昼食など最後までたっぷりあれば、メニュー名を書けるが、前日のあまりなど何種類か出す時は書きにくいことも。「おかずいろいろ」と書いてもよいが、最初はいろいろあっても、最後には、「おかずいろ」(1種類)くらいになることも多いから「おかずいろいろ」とも書けない。いっそのこと昼食のメニューは書かなくてよいのでは? メニュー板っているのかな? 「愛和館の入り口にはお花とメニュー板」として変えることなくずっとやってきているけどそのこともどうなのか? メニュー板が無くなったら食生活の人がみんなに聞かれて忙しくなるのでは? お昼に夜のメニュー見て調整したり、段取りしたりしてる。そもそも、最後までないと書けないというもとはどこにあるんだろうか? 最後の人までみんなが同じメニューを食べられることを良しとしているものはないだろうか?

村ネットには、先月のテーマの記事へコメントが投稿されていました。お風呂の湯船の蓋を開けておくか閉めておくかから始まった話題についてでした。蓋は全部あけてゆったり入りたい人と、そうではない人いろいろな思いや考えを出し合い「ちょっと贅沢ですが蓋は最初から全開にして開けておく、でやってみよー」となったそうです。また後日談ですが、お風呂のセットした人が蓋を閉めたままにしているのをみて、「開けることになったのになぜ閉まっているんだろう?」「あの人は研鑽会にいなかったのかな?」と出てくる自分に気づきそう思うもとは何だろう? と続いているそうです。

お風呂の例だけでなく、一つのことに対しての感じ方・思いや考えが違ったり、一人一人の好みや習慣になっていることも違って当たり前です。村で大勢の人とともに暮らしていく中で、いろいろな場面でその違いを実感しながらの毎日です。ある研鑽会で、「家で何人かの人がタバコを吸っている、吸わない私はにおいが嫌で気持ちよく暮らせないが、こういうことも出してみようと思った」と出されたそうです。そのことについて、「吸う人と吸わない人で話し合ったらどうか?」「家研をしたらどうか?」という意見が出てきました。研鑽会にしていくという意味での場をつくる、というところからでしょうか? 身近によくある話ともいえます。

この4つの例を通しても「研鑽会にしていく」とはどんなことだろうか? と改めて自らにかえってくるようです。事柄や方法の一致点を見出していくことなのか? 何か一つのものに絞っていくことなのか? 当事者どうしだけで研鑽会にしていけるのか?と考えていくことの多いテーマになっていきそうです。一ヶ月かけ共に探っていきたいです。

 

〈物事の観方についての研鑽資料〉
 物事を観ていく場合の観方として、立場から離れて観ていくことの難しさを強く感じる。A実顕地の人が実顕地を考える場合でも、殆どといっていいほどA実顕地に住んでいるものにとって、どうあったら良いかとなり易いもので、実顕地とは本当はどういうものかというところからの意見は少ないように思う。
テーマとして研鑽会で取りあげられるのは、常に何か問題があって、その問題の処理というようなことになる。そういう具体的な問題に絡んでの研鑽は、本当はどうかという研鑽では全くないのだから、今自分の置かれている立場から、それはどうしたら良い、こうしたら良いということになって、その上に立って次、また次というように、だんだん変形されたものになって、純粋なものが見失われていく。いろいろなテーマで研鑽する場合、特にそういう自分らであることを自覚しながら、全部放したところから、ヤマギシズム運動とは、どんなものだろうか、ヤマギシズム生活というのは研鑽学校でやってきたけれども、まあそれも外したところで、どういうものだろうと、そういう観方・考え方でいきたいと思う。
研鑽会にしていくことによって、自分がこだわっていることに気付き、こだわっていることに気付くことによって研鑽会になっていくようです。

実顕地研鑽部