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令和、新時代への幕開け


令和、新時代への幕開け

  『共にやる』を考える

          共にやるの「やる」、一致点の「点」

    一致しないこと、一致していること

 

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年間テーマ

令和、新時代への幕開け

12月度テーマ

「共にやる」を考える

共にやるの「やる」、一致点の「点」

一致しないこと、一致していること

先月は、豊里で子ども達の運動会が、賑やかに行われた様子や、幼年さんが七五三の晴着を着せてもらい、そこへ手作りの千歳飴が贈られた様子などが風の便りに乗って伝わってきました。

一志では、今年二回目の研鑽学校が開催されています。

今年最後のテーマも引き続き、「共にやる」を考えていきたいです。

前に豊里の研鑽部で共にやるについて出し合ったとき、「やる」という部分が話題になったことがあった。一般的に「やる」という言葉には、具体的な事や「何かを」という言葉が付くことが多い。でも、「共にやる」を考えるとき、「共に何かをやる」となってしまうと途端にこのテーマから離れていく気がする。

また、研鑚学校で私意尊重公意行について研鑚するとき、以前は「公意」を「研鑚の一致点」と言い換えて、研鑚の一致点を見出すって何だろうという感じでテーマにしていた。でも、何年か前の研学でこれを考えたとき、ふと「一致点の『点』が邪魔だな」と思ったことがあった。「点」という言葉が付くと、何かを決めることや決まったものを連想しやすくなると思う。一致ってもう少し深いところの話なんじゃないかという気がするけど、点があると急に具体的になって考えにくくなるし、何かをハッキリさせないと気が済まない感じになるなと思った。

こんな観点から、日常の暮らしや職場での出来事をみてみると、いろいろな例がでてくるのではないでしょか。

例えば、あることを進める時に3人いれば3人の、5人寄れば5人の考えや思いがある。今までの経験に裏打ちされた考えもあれば、やってみての実感から来るものもある。又は新しい発想が湧いてくることもある。「まずは寄ろう」と寄って出し合ったり、聞き合ったりするが、いつの間にか一致点の「点」を見出すことに一生懸命になっていることが多いのではないだろうか。「点」は一つだとして、或いは分かり合えるものとして、ますます意見を主張したり、時間をかけたくなったりすることもあるが、肝心要の「一致」はどこかへいってしまっていることがほとんどでは?

「たいていの物事はじゃんけんで決められる」と実顕地では昔から言われているが、そんな時じゃんけんで決められる自分であるか、決められないとしたら何がそうさせているのか?

『自分の考えはいい加減なもんや、と思ったら、そこから一体が始まる。まずその自分になること、用意するならそこからすること』と、これもまたヤマギシ会創成期から言われ続けていることですが、「共にやる」や「一致」を考えていくうえで大きな手がかりになるのではないでしょうか。

2年ぶりに、モンゴルからの技能実習生を受け入れることになり、先月末に8期生6名が各実顕地へ配置になりました。

受け入れるにあたっての案内で何を伝えようか、と生活部門で出し合ったとき、これはこうしてほしい。これはしないでほしい。といった具体的なことがたくさん出てきた。何回か出し合っているうちに、来た初日にあれこれと細かい事柄を伝えたいのか?私達も以前とは違って、ここではこうするもの、とか「あり方にそって」ということではなく、それぞれが考えてやっていることが多いなかで、どこを伝えていくんだろう?共にやっていく、って何をやっていくんだろう?とあれこれ考えてみる機会になったそうです。

2020年も残すところ1ヶ月になりました。

自動解任月でもあり、研鑽機会も増えることでしょうし、大いに研鑽し、新しい年、新しいお正月を描き、共に新年を迎えましょう。

実顕地研鑽部