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ヤマギシの村で実習生を体験中


実習生・大森さん
年末年始の特講にはじまり、2月の研学を経て、4月から豊里実顕地、7月から別海実顕地で実習生として体験をさせてもらいました。
昨秋に自分の暮らしの場所を変えようと発心してから、様々な場所、人との出会いがありましたが、ヤマギシとのご縁が長かった一年でありました。昨年の今頃の私は、今の私の状態を全く予想できなかったのですから、改めてご縁とは不思議なものだと感じます。当然、今、私がこうしているのは、私の選択があったからだというのもありましょう。しかし、私中心で世の中は回ってはおらず、思い通りにいかないことは多々あることです。
そんなご縁があったと感じるヤマギシに、私は何に惹かれて来たのでしょうか。そして何を求めて来たのでしょうか。何故、わざわざ不満はない職を退職してまで動いているのでしょうか。人と持ち味を活かし合いながら、どうやっていくと幸せになるかを考え続けるというのが自分の生き方である以上、生き方探しではなく場所探しであることに、ある村人との会話で改めて気付くことがありました。私は「something new?新しい何か」を求めて来たわけではなく、もっと人間の根本的、本質的なものの確認と体現をしたいだけなのです。そしてその根本本質こそが「幸福」であるという思いが、ヤマギシズムと繋がるのはごく自然のことでした。

ヤマギシに来てから、「研鑽」って何だろう。「零位に立つ」とはどういうことだろうという自分の中での一貫テーマに加え、実習では「人と共に、牛と共に」「よく見る」というテーマを出してもらいました。
例えば別海実習での繋ぎ牛舎実習はどうだったでしょうか。酪農は作業的には毎日毎日、同じことをします。そこで、これはこうするんだ、牛がこうしたらああすればよいというふうに、頭の中で固定化していってしまうと、酪農ルーティンを日々繰り返すだけの、それは何ともつまらない実習生活になっていたことでしょう。
私が体験した繋ぎ牛舎は、給餌台車に餌を入れるのはローダーであっても、直接牛に給餌するのは人力です。スクレーパーで牛床マットの徐糞するのも人力。搾乳も牛が繋がれている以上、人間が牛の側までミルカーを用意しての半分人力。物理的に人と牛が近いということは、それだけ牛達の個の特徴や状態を見ようとすれば見やすいとも言えると思いました。
実際に繋ぎ牛舎に来る牛は、ロボット、パーラーでは飼えない個性派の牛達ばかりです。例えば「足癖が悪い」といってミルカーをよく蹴り跳ばす牛がいますが、本当のところはどうなんでしょうか。そもそも「足癖が悪い」というのは、人間都合の固定化された表現かもしれません。牛が不快に感じてミルカーを蹴り跳ばし、蹴り跳ばされたミルカーが汚れ、搾乳時間が伸びて人も疲れるのは、幸せな状態とは言い難いです。もっと不幸なことに人が怪我をしてしまうこともあるかもしれません。しかしだからといって、脚を挙げる牛には、すぐキーパーをつけるという判断はどうでしょうか。怪我のリスクヘッジを考慮しつつ、昨日、この牛は脚を挙げたが、今日はどうであるかという研鑽をしてみる。すると今日どうするかの判断のために、牛をよく見ることになっていることに気付くと同時に、牛の方がよっぽど私を見ていたことに驚かされました。牛からすれば初めて触られる私が気になっていたのかな。今日から声をかけてみようかな。今日の調子はどうかなと接したりするだけでも日々の変化や気付きがありました。ファーストコンタクトは「脚を挙げる」個から、搾乳の度にグルンと首を捻って「アンタか」と言わんばかりにおとなしくなる牛、どうしてもやむなくキーパーを付けて受け入れてくれた牛、キーパーを付ければ余計に暴れ、キーパーを外し対話した牛。牛の性格、個性と向き合いながら、さらに牛舎の状態、状況変化、メンテもあるので、面白みのある日々でした。

改めて「研鑽」とは何かと問われれば、「無固定」という言葉が思い浮かびます。それは決して、ああでもないこうでもないという優柔不断でもなければ、心があっちこっちの風見鶏でもありません。過去の経験、体験、実感を無視や否定するものでもありません。飽くまでも決めつけからの不幸を避けるための「棚上げ」であると思いました。
繋ぎ牛舎実習では、社員同士の怒鳴り声が聞こえる喧嘩もありました。牛に対しての暴言に聞こえることもありました。そこで、「この人がおかしいのだ」という固定を捨て、話を聞いてみる、よく見てみると、牛に厳しく暴言を吐いていた人が牛を撫でてもいました。本当は誰しもが「可愛い」という感情を抱き、動物を愛でることができるのだと感じました。
私はこれからどこに住み何をするか、この原稿を書いている時点では決めないようにしていますが、世の中のトレンドはこう言っているが本当はどうであるかという視点、持ち味を活かし合い、人と共に幸せになるという研鑽生活が続くことは確かです。

実習生(別海実顕地)大森利識