豊里のお正月
【新年の挨拶、今年を描く】
村人の集い 新年の挨拶より
約一年前から職場連絡研が始まり、そのことをきっかけに多くの人が実顕地の色々な情報に触れ、その背景を知り、他職場や他の実顕地に気が行き、震災した地域へも意識が広がって行った昨年だったと思われます。
それと同時に、さまざまな研鑽機会も組み合わさってきました。連絡研をきっかけに職場の出発研に人が寄るようになってきたり、秋の研鑽会などが開催されたり、また、研鑽会だけでなく、畑に定植や収穫に行ったり交流に動いたりと、実際にやってみてを基本研や仲良し研、運営研などのあちこちの研鑽会で話題にするようになってきました。
基本研も次第に人数も増えて、特に研鑽学校や養鶏法を出発した人の新たな参加や、実顕地で話題になっていることに触れて基本研に出てみようかという人も加わってきました。
それぞれの研鑽会が独立して進んでいるのでなく、ある研鑽会で出されたことが別の研鑽会でも取り上げられたりして、実顕地で開催されるすべての研鑽機会が重なり合って繋がりあって進んできたように思います。
結構、研鑽会で出た話題を共有するようになってきているようです。
こうなってきたベースには、多くの人が長期研に参加し、自分に向き合うだけでなく、他の実顕地の実情や課題を知ったり話し合ったりすることで、意識や観方が変わったりして、刺激を受けていることも大きな要素だと思います。
最近の長期研の受け入れ研も、単に報告だけでなくお互い反応しあって展開していくことが多くなってきました。面白いので来る人も増えてきています。
さて、研鑽会で出た話題が、他の研鑽会やむらネットなどで展開していくことが多くなってきましたが、今年はそれをどう楽しんでいったらいいのかなと思います。
昨年末のある研鑽会でこんなことが出されていました。
介護部では、連絡研で出されたことを単なる連絡事項の報告で終わるのでなく、自分たちのものにしていこうと。連絡研で村のお風呂がゆず湯になると知り、自分たちは介護の風呂をどうしようかと。それなら、介護の風呂もゆず湯にしようと、それや、それそれ、寄った人でそのことを見出したときは、単にゆず湯にしようと意見が一致したというものでなく、そうしようという気持ちが湧き出てくると同時にこんなんがいいなと喜びになったと聞きました。
その発言を聞きながら、自分もなぜか嬉しいという気持ちが湧いてきて、何かいいなという感じでした。他の人の嬉しいという気持ちに共鳴して、自分もまた嬉しいという気持ちが心の中から上ってきたようでした。何か不思議な心地よい瞬間でした。
客観的に事柄だけを捉えれば、単に介護の風呂をゆず湯にするだけのことですが、聞いていて心の中にあるものが湧き出てくる実感がありました。
暮らしや職場での一こま一こまがそんな風に実感を伴っていける世界は、なんかワクワクしてきます。そうだよな、そんな社会をつくりたくて今ここに居るのだよな、と思います。
こういう実感するような事例が、今年はどんどん出てきそうな気がします。楽しくて実感を伴う実顕地生活をしていきたいものです。
今年も一緒に実顕地をつくって行きましょう。
去年の暮れ、初めてやらせてもらった厨房の段取りやお正月の準備でバタバタやっている時に、中西真理子さんから、来年度の専門部に青年部を設けてやってみようと考えて、利佳ちゃんにそのメンバーになって欲しいと声がかかりました。私はすぐにやりたいとは思いませんでした。私は自分で、段取り、例えばかっこを埋めていくだけの作業はやりやすいけど、人を見ていくのは分からないと思っている事。考える事がいっぱいになると、投げ出してしまう事があって、周りに迷惑をかける事になると思っている事を真理子さんに出してみました。そんな深く考えてもらおうと思ってないし、上手にやってもらってもいいけど、そんなに思ってないよと言ってもらいました。その後考えてみて、今の段階で決めつけてるし、なんかイメージを持ってるなーと思って、やる前から決めつけたくないと思って、やってみようと思ってやらせてもらう事になりました。
その2日後位に、今度は新年のあいさつをとまた真理子さんから声がかかって、利佳ちゃんにっていう声があってと声をかけてもらって。それなら、やってみようと思って、今この場に立っています。
私は人のあたたかみをあまりキャッチしきれていないところがあります。それでも、みんなが幸せになるように、人と共に『決めつけない・持たない・ひっかからない』でやっていきたいです。
「あり方にそって実顕地を造っていくのでなしに、一人一人のフッと思い浮かんだ気持ちでできていくのが本当」という一説が養鶏法の資料にありました。元の元を考え調べながら、自分が本当にやりたい事をやっていきたいです。
まだまだ未熟な私なので、どんな事でも言ってもらいたいです。一緒にやらせて下さい。