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【エッセイ】
モンゴルノートⅣ



モンゴルノートⅣ

春日山実顕地 柳文夫

 2011年8月、モンゴル第3回特講が開催される。  今回は、日本語が多少できる人材が数名参加する。運動の次の段階を踏まえてのモンゴルの会員達の心意気の結果である。

 8月10日、成田発、502便ウランバトール行きの飛行機は、暑い日本を離れて一路ウランバートルに向かった。出発の際、成田に東京案内所の松本さんが見送りにきてくれた。  この人の律儀さと心遣いに、いつも感動させられるのは僕だけではないだろう。

 乳牛にとって、一番厳しい季節の夏。彼女たちの過ごしやすい気温は5~10℃。 日本の夏は30℃を越え湿度も高い。このような時期、慣れた人が牧場を留守にするには、周囲の人は相当の覚悟がいる。村のメンバーと家内に感謝しながらの旅になった。

ジンギス・ハン空港で知ったのだが、前の座席に座っていた女性と子供二人は、ゲレルマのお姉さんとその子供であった。カワハラさんは「ゲレルマに似た人がいると思った」というが、僕は鈍感なのか「チットモ」そうは思わなかった。 「似てなんかないよー」だ。

 ウランバートルのホテル。シャワーのお湯が出なかった。 スッポンポンになったカラハラさんは、しばらく頑張っていたが諦めたらしく、あの笑顔で「あーあ」と白い歯を見せた。  「何で言ってくれないの」なんてのは日本の発想で、ホテルのお湯が出ないこともあって当たり前が現代のモンゴル流であるらしい。 「工事中でしョ、しょうがないョ」 ビャンはこともなげに言う。  同行のユキちゃんが思わず「安くしてもらえないかしら」と言ったが、 モンゴルにはそういう観念もないらしい。 「日本人はヤダネー」といった顔をビャンがしている。ハハッ、面白い。 夕食にはオトゴー(女性)が駆けつけてくれた。才色兼備のたのしい婦人会員である。

 夜、ホテルの窓の外は映画館とパブ。 そこだけネオンが光っていて街の気配である。 その光景が、どこかもの悲しく写るのである。 異国である。

 8月11日、農場は、ハーブの香りに満ちている。 バンガローの周囲に生える短い草。 由起ちゃんは「ギヤー、みんなハーブよ。凄い。日本では考えられない」と大騒ぎである。香りを嗅ぎ、口に含んでみる。ハーブの香りが口腔に満ちる。 ハーブは痩せた土地に生えるという。モンゴルの土地は痩せているということでもある。

 今年、5月に研鑽学校で植えたという「胡瓜(キウリ)」がハウスの中で実っている。 トマトはといえば、小指の先ほどの実がたくさんついているが、どれもこれも真っ青である。赤い実が一つもない。「これ、プチトマト」と聞くとふつうのトマトであるという。 気候の為か。つくり方の問題なのか定かでない。 先にモンゴル入りしていた岡田さんは、間引きするのだといって、ハサミを持ってハウスに入った。  岡田さんのハサミは果たしてトマトの実を赤くするのだろうか。乞うご期待。

この晩、岡田さんの「蒙古放浪歌」が農場の食堂に響いた。 「こころ猛(たけ)くも 鬼神ならず ひとと生まれて 情けはあれど 母を見捨てて 波こえていく 友よ 兄弟(けいら)よ 何時また会わん♪ 」と来た。 ジンギスカン・ウオッカ がその朗々とした歌声をさらに麗しくしたのは言うまでもない。

8月12日、日本と連絡をとるべく用意した携帯電話。機種のためか圏外マークを示す。 丘の中腹まで登ったり、丘の下の道路まで下りたが一向に「圏外マーク」は消えない。 カワハラさんは元富士通だ。いろいろやってみたが「駄目だよ。これ」と素っ気ない。 「サスガー、元富士通」と言わせないのが、カワハラさんの良さでもある。 「村ネット」に通信を送ることになっているが、実現しそうにない。 しかし、本音を言うと日本から電話が入らないので少し嬉しいのだ。 そうさ、モンゴルを満喫するのダッチ。 しかし、日本に帰ったら「ドジ、ドジ」と誰かさんに叱られそうである。 「アーア」 と言葉にならない音を発した。

キウリがたわわに実っている。種をまけば、いくらでも採れるらしい。消毒もいらない。キウリの原産地は、インドのカシミールおよびチベットあたりという。  何番目かの故郷になるのか「胡瓜 」とも書く。胡は夷(エビス)のこと 。エビスは別名(キョウド)という。 気候風土は、乾燥していて、キウリの生育に適しているのかもしれない。 胡(えびす)という遊牧国家を想像しながら胡瓜を食す。 心が無限に広がる。極楽である。

日本では「この季節のモンゴルは蚊で一杯だ。蚊取り線香と虫除けスプレーは必需品だ」と聞き、カワハラさん、ユキちゃん、そして僕は大量の「蚊」対策の数々を用意してきた。しかし、農場に着くと「蚊」は一匹もいない。ガセネタである。 薬局や駅の売店でセッセと買った。小遣いも減ったし、重たかった。 「なんかクヤシー」のだ。 誰だっけそんなこと教えてくれたの。ネー、000さん。

草原は海抜2000m。頭がボーとしているようだ。 いくらでも寝られる。モンゴルのメンバーもよく寝る。 ユキちゃんは「わたし、いくらでも寝られるのよ。嘘みたい」 カワハラさんもベットに横になると「クークー」とすぐ寝てしまう。 「気圧のせいで眠たいのか」とビャンに聞くと 「風景が良いからじゃなィ」という。 うーむ、話が通じないと思いきや。 「ビャンは、ウランバートルでは眠れないけど、ここではよく眠れるョ。ほんとダョ」

人間の神経は、都市と草原では機能を異(こと)にするのかもしれない。 人間は、田園に住むのが一番である。 田園は人を人としてよみがえさせる機能をもっているように思うのである。 海抜2000mの草原。ああ、ほんとうに眠たいのだ。

 草原の緑は、雲のかたちを写す。 暗くなったり、明るい緑に輝いたりする。 そのコントラストが微妙に美しい。 丘陵の谷間のあちこちが濃い緑に映える。 明らかに作物の色である。  ウーレーに聞くと片言の日本語で「ジャガイモかニンジン。それしかとれないから」と答えた。ウーレーはガンゾルグの奥さんで頬の肉の豊かな目のやさしい女性である。

 ちなみに、モンゴルの飲み物は、スーティツァイ。羊の乳を5倍くらいにお湯で薄めて、タンチャを通したもの。モンゴルの人々は美味しそうに飲む。 このお茶を「朝な夕な」に自分たちが飲む前に、9個の穴を穿(うが)ったスプーンにすくい、ビュッと空に向けて放つ。 九つの神に捧げる。九つの神にスプーン一杯と少ないようだが、これもマニ車と一緒で モンゴル流の合理化なのかも知れない。 お茶もお酒も、まずは、蒼天の神(テングリ)に捧げるのである。ビュッ。

8月13日朝の打ち合わせ。 ラジオ体操の場所の草が深い。朝露に靴やズボンの裾が濡れた。 「靴やズボンの裾が濡れるじゃない。草を刈ったらいいと思うの」とユキちゃん。 「モンゴルの人は、草の丈が高いのがウレシイし、足もとが濡れるのもウレシイんです」 とビャンが答える。 「ウーン、足もとが濡れるのがうれしい。分かんないナー」 カワハラさんは、目を細めてうれしそうに白い歯を見せる。 「虫歯も入れ歯もありません」という証明のような 少しずつ隙間のある美しい歯である。 カワハラさんはいつのまにか薄い頭髪の手入れを断念したらしい。 白髪を坊主にして空港に現れた。 カワハラさんは心が優しく、物腰が柔らかい。 なにか、達観したかのごとくゆったりしているのも様(さま)になっているのだ。

午後、農場のあるバイヤンチャエンダマン市の市長さん(バヤラメネフ)が挨拶に来場した。ジンギスカン印ウオッカを手みやげにご子息を連れて来た。 市長さんは7月に日本のヤマギシの春日山や豊里に来場した。 ガンゾルグやビャンの話を聞いて、日本のヤマギシの村を見たくなったそうである。  僕が春日山の案内をした。 「ずっと、あなたのソバにいたい」と市長が言ってるよとビャンが言った。 どういう意味か、それともモンゴル流の挨拶かを聞き逃した。  先日、市長はモンゴルの新聞に日本のことやヤマギシのことを書いて投稿した。 文面は大きかったが残念ながら内容についてはゲレルマの翻訳待ちである。

 ひとしきり挨拶が終わると子息に馬頭琴を弾くように促した。 市長の体格は大きく腹はモンゴル人特有の突き出し腹である。 子息は細身であったが馬頭琴の音は力強かった。 彼の演奏から馬蹄の音が聞こえてくるようで、ついついリズムを取ってしまうのだ。 子息は皆のリクエストに応え合計8曲を弾いた。食堂に大きな拍手が起こった。 オカダさんは「エーナー、エーナー」を連発し感嘆することしきりであった。

突如、市長は子息のソトバイヤルに「特講」に入るように勧め始めた。 子息は「いいよ」と軽く返事をし、明日からの特講に入ることになった。 もちろん、彼の愛器の馬頭琴もイッショである。

 話は変わる。特講の準備研は、これからのモンゴル特講を担っていくガンゾルグとビャンに「特講とは何か」という一点で神髄を伝えることを旨(むね)として進んでいる。 「特講の精神とは何か」 「特講の目的とは何か」 「受講生に伝えるべき心情、心境について」 短い日数であったが、彼等にエッセンスは届いたであろうか。 「ガンゾルグよ、ビャンよ、育て」

 大阪のおばちゃん「杉山 和子女史」のモンゴルの運動への入れ込みはすごい。 モンゴルの農場購入の応援はもとより、日本語教師の資格を携(たずさ)え、モンゴルに滞在し日本語教室を開いた。彼女の情熱とモンゴル会員のバックアップで、今回、日本語教室から11人の参加者を迎えた。特講の拡がりとはこういきたいものである。 どのような話の進展なのか、杉山女史から聞いてみたいものだ。

さて、第3回モンゴル特講は市長の子息(ソトバイエル)の馬頭琴にて始まった。

 片言の日本語で挨拶をしている受講生が多く、受講生の平均年齢は25才位。 男の子たちは、薄いチョビひげを生やしていてみんな可愛いのだ。 モンゴル女性の足はすらりと長く、グラマーであり、おしゃれである。 短パンをはき、下着のような服を着て、胸元を露わにしている。 実に目に心地よいのである。 「ナー、オイ、目のやり場に困るんだよナ」とオカダさんはおっしゃる。 オカダさんは67才。 まだまだ男であり、年はとっても枯れてはいないらしいのだ。

 僕は、モンゴルのことわざが好きである。含蓄(がんちく)に富み、心に残る。 文字を持たなかった民族の古(いにしえ)からの知恵の伝承である。  今回もまた、モンゴルのことわざとの出会いを楽しみにしているのだ。 講習会の中で出たことわざを紹介する。 「女性は身体を生むがこころは生まない」 つまり「こころは生んでから育てるものですよ」ということらしい。  受講生のほとんどはこのことわざを知っており、子育ての戒めであり、母親のあり方を示唆(しさ)しているようでもある。  へたな教育書を読むよりも「おかあさん、子供のこころはあなたが育てるのですよ」と言った方がわかりやすい。 では、母親の「こころ」はどう育てるのかといった命題は、ヤマギシの「特別講習研鑽会」を受けていただくことにつきるのである。  受講生の中に講習目標の「腹の立たない人になる」をみて、「怒りは病気だ」というひとがいる。第一回特講の時も何度か聞いた言葉である。 これも「ことわざの一部」なのか。それともモンゴル人の一般概念なのであろうか。

 ウランバートルの民俗資料館の壁に張ってあったジンギス・カンの言葉に、 「never do not angry」とあった。 「腹を立ててはいけない」「侵略してはならない」「仲良くすること」 「オイオイ「腹を立てろ」「侵略しろ」「信用するな」じゃあないの」のと、ついつい既成のモンゴル観から言いたくなる。  ヨーロッパの歴史にみる「野蛮なモンゴル民族」という見方がある。 一方、最近の歴史学は「モンゴルは多民族国家で緩(ゆる)やかな交易国家であり、実際の世界帝国であった」という見方がある。 近年、前者のヨーロッパの歴史観には相当な誤解があることがわかってきたのである。 聖書の中の記述にのっとった、モンゴル民族を悪魔に見立てる観点から抜け出られなかったということらしく。また、ヨーロッパからの観点に縛られたともいえよう。  この当時、文明という観点からみても、ヨーロッパよりもモンゴル世界帝国が格段に すばらしい文化を持っていたのだから。

 ガンゾルグは元は歴史の先生であるので、モンゴルの歴史教育について、いろいろ聞いてみたいのであるが、言葉と時間の壁はいかんともなしがたい。  機会をつくり、ゆっくりと聞いてみたいものである。

話を戻す。 どうやら「怒り」に対する認識が、この民族の中には、はっきりしたものがあると感じた。 さてさて、これから本格的な講習に入っていくのだ。

参加者は「いかなる場合にも腹の立たない人になる」という講習会の目標を自分の目標に据えている。 モンゴルの人々は、「文化として腹立ちを克服して、来たるべき社会を考えているということを教育の根幹に据えている」のかもしれないなど想像すると、一見は後進国のように見えるこの国の底にある精神文化の高さに自分勝手に脱帽したりするのである。  そういえば、ブータンは国民の幸福度を国家の指針にしているではないか。 このあたりの本質的な価値観の転換が現代社会に求められているのである。

3日目、腹の立たない人が続出。 「腹の立たない人に依る社会づくり」のテーマで研鑽することになり、「人類の理想とする社会」の一端をモンゴル人の人々と共に描いたのがうれしかった。こういう研鑽を世界各地で開催できるようにしていきたい。 そのための精神文化を、このモンゴルという国で実現してみたいと思うのである。

 午後「日本人の世話係に感謝する」という受講生が数人出た。 「ダーダー(そうだ、そうだ)」と相槌がつづく。 僕は思わず右手を挙げ、5本の指を開いた。 「みなさん、世話係はガンゾルグ、通訳のビャンを含む5人です」 すると、驚いたことに波のような拍手が起こった。 モンゴル人の受講生と「こころの呼吸」である。 僕も当然、拍手に参加した。 そう、「ダーダー」である。

4日目、受講生の女性が足を蜂に刺された。どんどん腫れてきた。 ユキちゃんはそばに寄って行き、腫れた膝の蜂の毒を吸い出し始めた。 僕には、ユキちゃんが慈母観音かマザーテレサの様に写った。 翌日、足の腫れは引いた。 後日、「次の社会には「親愛の情」が絶対条件です」という研鑽の時。 受講生から親愛の情とは、「ユキちゅんの様な姿である」という話が出た。 みな口々に「ダー、ダー」という。 モンゴルは語彙(ごい)が少ないというが、この「ダー、ダー」はなかなか言葉の響きが 良い。もちろん、親愛の情=ユキちゃんというわけではないが、 ユキちゃんは、心あるおばちゃんであるのだ。

 午後は散歩。肌着一枚になって裏山に登る。結構きついのだ。 お腹の出たビャンは、「疲れると通訳に差し支えるから」と「ヒッヒ」と笑いながら 「イーデス」を繰り返した。 体重95キロ、先回モンゴルに帰ってから17キロ増えたという。 草原といっても草はまばらである。 礫(れき)の間に短い草が生えている。 丘のところどころに穴が開いている。 なにか、動物が住んでいそうな気配である。 動物の穴であることは確かである。

フィデルは日本語がすこし出来る。フィデルに聞いてみた。 「 タバルカン(リス科:マーモット、山ネズミ)の肉は美味しいから、みんな食べてしまった。ほとんど穴に入っていないョ」 タバルカンは、どんな姿で、どんな味がするのだろうか。  きっと「リス」みたいな目と鶏肉と豚肉の中間のような味だろうかと勝手に想像する。 後で調べてみると、身体つきはモルモットに似ていた。味は不明である。

フィデルは、日本に留学した。うまくアルバイトが見つからないので留学を断念し、帰国したという。留学といっても、生活費は留学生の自分持ちである場合が多いのだ。

ダラハンへの道

裏山は300mほどの山 山の頂きに30人程の人。 心地よい風が山頂を吹き抜ける 下に見えるのは われらが農場 その向こうに草原が広がり そのまた向こうに草原が無限に広がる カワハラさんが「もう帰ろう」と受講生に声をかけた 彼らは動こうとはしない 無視をしている風でなく エッ、何を言っているの、といった感じである 「あの子達は、なかなか下りてこないと思う」 目の色がキラキラしてきた草原の民 僕の目には 草原の頂きで馬に乗り 彼方のダラハンへの道 ウランバートルに続く道 草原の動きを見張る馬上の勇者たち 「彼らの先祖の姿」と「受講生達」が重なって見えるのだ。 頂(いただき)に立つ彼等の頬(ほお)に 草原の風が声をかけるのだ  髪は風の反対方向になびく 風はすでに秋の色を内包して吹き抜けていくのである

 カワハラさんと僕が農場に着いた頃、 山の上からゆったりといくつかの塊(かたまり)になって裏山を下りてくる受講生の姿が見えた。  モンゴルの草原を誇りに思う彼等のほとんどがウランバートルの喧噪の中に住む。 山頂に立った彼等の目に、草原はどのように写るのであろうか。 草原は、彼等の底にある遊牧民の血を沸き立たせたに違いない。

 問いは厳しく、受講者のこころは大いに揺さぶられている。 「机の前にいる知識人より、そこに行って死ねるバカが良い」 これも、モンゴルのことわざである。 現代のモンゴル人は、どのような死生観を持っているのであろうか。 「モンゴルでは、国のためといえば、死地にもおもむく気風は、今も生きているのか」 とビャンに聞いた。 「そうだよ、モンゴル人の血にはいっぱい流れていますョ。ヤナギさん」 とビャンは胸を張って答えた。

ゆがんだ窓ガラス

特講会場の 窓ガラス 凹凸があって ゆがんでいる。 そのゆがみの向こうに 草原がひろがる 雲間の陽が 草原に 差し込んでいる 丘陵の色が 刻々と変わる 草の輝きが 微妙に変化する 短い穂先が 透明になってきた 真昼の 金波銀波が 揺れている ああ このガラスのゆがみ ゆがみは 絶妙な色彩を 生み出してやまない 地上は こんなにも美しく 光を発し 純白の雲と 蒼穹の空 これ以上に 人間に 何が必要というのであろうか

この心地よい季節の裏側に 長い冬があるということ だからこそ この季節を 讃える モンゴル

モンゴル 草の海 ひと 家畜の群れ モンゴル 天空 雲の色 風の匂い もう 何もいらない もう 何も足すことはない

ブルーベリーに似たような実を、オカダさんがたくさん摘んできた。 食事の時、砂糖を少し入れた「ホット・ブルーベリーもどき」が出てきた。 酸っぱくて、こくがあって、暖かい。コップの底にプチプチの実が入っているのである。 そのプチプチの実を、指で取り出すのに、僕はワクワクしている。 秋めいてきた草原の光と風を受けながら、極上のホット飲料。 実に美味しく、滋味が豊かである。「ウメー」

 もともと、モンゴルでは肉は寒い時期のもので、乳の出る時期は乳をふんだんに飲む。 外気温が零度を下回ると大地は天然の冷蔵庫になるので、肉の臭さをごまかす香辛料はいらない。「乳」を白い食べ物。「肉」を赤い食べ物と呼んだ。

 また、石焼き料理に使った「焼き石」は美容に効果があるとされている。 アマガが、「ニヤニヤ」笑いながら手渡してくれた「焼き石」は実に「アッツイ」のだ。 極寒の地で「アッチチィ」とばかりに両手に持ち替えているうちに、身体の隅々にまで血が巡って、頬は赤らみ、足の先まで暖かくなるように思えるのである。  また、モンゴル人は大昔から人間に必要な微量要素を、羊や牛の内臓から摂取してきたのである。内臓は、極寒の地で生きていく民族が、野菜の代わりに食する必要不可欠のすばらしい栄養素である。  野生動物は、捕獲した獲物の内臓から優先的に食べる。 これも本能的に微量要素を摂取しているということ。内臓を引っ張り出している光景を見ると残虐な感じがするが、生態系としてみれば、「オウオウ、ライオンさん。しっかり食べていきなさいよ」ということになる。

懇親研鑽会である。 受講生が、胸に手を当て、誇り高く「国家」を歌った。 僕たち日本人は、日本の歌を歌うことになった。 ユキちゃんが「君が代」を歌おうと言いだした。 カワハラさんは「エッ」といって、君が代を歌うことに抵抗を示した。 カワハラさんは全共闘世代である。 ビャンが日本人は「国歌」を歌うと言ってしまったらしい。 受講生はみんな敬意を表して起立している。  カワハラさんが「桜」にしようと言うと、受講生達はガッカリしたように見えた。 ビャンは、こういうときはキチンと訳しているのだ。 イヤ、いつもはいい加減といいたいのではないのだが。ビャンは面白がっているのだ。 「やっぱり、ネ、ネ、ソウショ」とユキちゃんが言うので歌うことになった「君が代」。 それから、ようやく、なんとか、3人の喉を動かした「君が代」。  しかし、歌いなれない「君が代」は不揃いで目茶悪茶な「君が代」になってしまったのである。アア。  戦後民主主義は、日本人が日本人であることを希薄にしてしまったように思う。 右翼と愛国が同義語になり、1960年10月12日、愛国党の青年が社会党の浅沼稲次郎を刺殺するに及んで、愛国の文字は右翼の代名詞になってしまった観がある。  ともあれ、国の歌が揃って歌えないという「日本国民の現状」は否めないのだ。

8月21日、第3回モンゴル特講が終わる。 馬頭琴に始まり、最後もソトバイヤルの馬頭琴で締めくくることになった。 特講前に、親に連れられてきた時の馬頭琴の音色と特講を終了した現在の馬頭琴の音色は、ここまで違うのかと思わせるほど。弦の上を滑る弓は、小気味良く音を奏でる。  馬の蹄(ひづめ)の音、裏声(ホーミー)の「ギーギー」という声。  その音色に合わせて、特講生達は高らかに歌う。 歌声は風に乗って、モンゴルの平原を渡った。 風は受講生達の「心」を、この国のどこまで運んだのであろうか。

 馬頭琴の名手ともなれば、その音色を聞いた馬が涙を流すという。 また、ラクダは2年に一度出産するが、こぶの為にお産が大変らしい。 ラクダは涙を流しながら出産するという。 その出産が少しでも楽になるようにと、モンゴルの人々は馬頭琴を奏でるという。

 特講は「観念の転換」ともいわれるが、この特講は「心の転換」ともいえるのではないか。  一週間、みんなと共に自己の奥深いところに問いかけることで「自己」と「宇宙」との関係が解け、本来、人として、人のやるべきことが、それぞれの「目の前」に提示されて来たはずなのだ。  それを知り得た「歓び」は、彼等をモンゴルの次代の先駆けにする。 「歓びは」自らを社会づくりに送り出そうとする「糧」になっていくように思えるのだ。

 人間の幸福とは、自らの内奥の深さや、人類の豊かさを知るところから始まって、 「自らが知り得たこと」を他の人に伝えられる「歓び」につきるのではないか。 決してそれは高邁(こうまい)なものでなく、自分たち自身の中に「人類の智恵」として眠っているもの。「それ」に気付き「それ」に添って生きていくだけなのだから。 その一端を、今回の特講で顕せたことは非常にうれしいことであった。

 参加者が、5人乗りの車に7~8人を乗り合わせている。 仲良くダラハンやウランバートルに出発する。

盟友(とも)よ、行ってらっしゃい。 これからのモンゴルをお願いします。 これからもずっと一緒にやっていきましょう。 帰ってくるところは、ここですよ。 この小さな「心」の農場ですよ。

これからの彼等の心の旅は、どのような旅か。 「ボロと水でタダ働きのできる士は来たれ」 この言葉に心が動いたモンゴルの受講生。 そして、その背景にモンゴル民族という豊穣(ほうじょう)。 これからは、彼等が「心の世界」でモンゴルを牽引(けんいん)していくように思える。 その確信ともいえるものが、僕の中にはっきりと宿ったのである。

 特講最終日。午後、ダラハンに向かった。 モンゴルの一般家庭へのホームステイである。 モンゴル第1回特講に参加したガントルガ、オトゴー夫妻の運転で一路ダラハンに向かう。 ダラハンへの道は大草原の道である。 左右に美しい丘の連なりと草原。 山羊の群れや羊の群れなどが点在して見える。 モップをぶら下げたようなヤクの姿もみられる。 ヤクの乳は絶妙の旨さと聞いた。 北のの草原はウランバートル近郊の草原より緑が濃いようにも思える。 小さな集落を3つ程すぎる。 集落に入ると道路を横断するコンクリート製の半円の出っ張りがある。 高速で走れば、車はバウンドして危険である。 標識など役に立たないというばかりの強制的なスピード抑制器が埋設してあるのである。 ガントルグが対向車を避けながら、前の車を追い抜く。 悪路を100キロでブッ飛ばす。 追い越しをかけるガンゾリグは、頼もしいというか、怖いというか。 助手席の僕は何度も息を飲んだ。 牛や羊が道路にいたり、道端で草を食んでいる。 ちょとした拍子に、家畜と接触するかもしれないのだ。 ガントルガはその度にクラクションを鳴らす。 家畜たちに「気をつけろ」と合図するのである。 クラクションは、家畜と人間の安全対策なのだ。 2時間の間にゆうに100回は鳴らしたに違いない。 日本の「プッ」みたいに品が良くない。 「ブッブッ、ブウップ、ブウブウ」ひどくけたたましく、喧(やかま)しいのだ。 これも、過渡期のモンゴルの現在である。

 ようやく、ダラハンの街に入る。 美しい街とは聞いていたが、街路樹が道の左右にあう。 一本一本にふっくらと枝葉がついている。 街路樹があるというのは、そのことだけでこんなにも美しのかと感嘆する。  ウランバートルには、草は生えているが街路樹といったものはほとんどない。 殺伐とした観があるのは否めない。 ウランバートルに街路樹が植えられるのも、そう遠くないとも思われるが、 植えられた後は、さぞ趣(おもむき)のある街に変貌するのではないかとも思えるのである。  東京は大阪に比べて街路樹が圧倒的に多い。大阪の歴史と街路樹の関係は密接不可分と思うのだが、寡聞(かぶん)にして、ここには書けない。

 ホームステイは、ガントルグの両親の家である。 富裕な家らしく大きな一戸建てである。 ガントルガのお父さんは73才。夫人は67才。すでに定年を迎え、実のなる木を大きな庭に植え、野菜をつくる。悠々自適の生活である。  おみやげにヤマギシ特製「ひよこせんべい」と卵油の大瓶をプレゼントした。 夫人は卵油を手に取り「これは何か?」と聞いてきた。 僕はとっさにポパイの真似をして「力こぶ」を見せた。 夫人は大笑いをして喜んでいる。 それからは、僕と目が合うと「力こぶ」をしてみせるのだ。

 ごちそうであった。中でも仔牛の肉の蒸したものを頂いたが柔らかくて美味しかった。 ゴビ・ビールも出たが、この家ではビールを冷やす習慣がないらしい。 夏に、冷えてないビールを勧(すす)められて困っているオカダさんの顔が面白い。 挨拶が済み、片言の話をしばらくした後。夫妻は絹のモンゴル服を取り出し、5人の日本人に着せてくれた。民族衣装というのはなぜか心が動く。なにか嬉しくなるのだ。 オカダさんを始めみんなの顔に満面のうれしさが表れている。 「ハイ、パチリ」写真は撮(と)られた。    夕刻、近くのハル川の観光ゲルに案内された。馬に乗り、馬をなぜる。 この馬種が、遙かなヨーロッパに遊牧民族と苦楽を共にしたに馬種に相違ない。 ハル川の川面(かわも)にさざ波が立つ、心地よい夕暮れの風である。 モンゴルの言い伝えに「馬」は「風」から生まれたことになっているという。 夜になりかけて、暗くなったハル川の河原に立っている。 夕暮れの河原は蒼い。足元の石の色、川の色、中州の草の色、 そして空の色、夢の中のような幻想的な風景である。 蒼のフイルターがモンゴルの静寂(しじま)にかかるのだ。 馬乳酒は、酸味に満ちて、乾いた喉の奥に染み渡ったのである。    父親は、河原で火を炊くようにガントルガに命じた。 木片やアナガル(牛の糞)を集めてきて火を点ける。焚き火とウオッカと歌声。 モンゴルの歌、日本の歌。僕は若い頃にオカダさんに教わった「蒙古放浪の歌」を歌った。どうやら歌詞がオカダさんと違うのだが、まあ、それもそれ、間違った歌詞を堂々と大声で歌うのだ。

 僕は一人、ガントルガの両親の家にホームステイすることになった。 通訳はいない。一家と話し、少量のウオッカを飲んだ。お互い何を話しているのか分からないが想像力を働かして「たぶん、こういうことだろう」程度で双方が適当である。 いやいや、僕が適当であるという方が正確であるのだ。ハイ。  いつの間にか、会話が英単語になってしまうのは、外国語は片言の英語しか知らないということ。あとは、手振り身振りでやるしかないのである。 「アイ ラブ モンゴル」 「アイ ラブ モンゴリア」 「ウイー ラブ モンゴルア」 家族みんなと大合唱である。馬鹿騒ぎである。

 翌朝。夫妻は、昨日僕が身につけたモンゴル服を再度着せてくれた。 そして、この服をプレゼントすると言い出した。絹の高級品である。 一度は辞退したが「ふと」この服を「春日山の村人」に見せたい気持ちになって、喜んで頂くことにした。そして、この服を来て正月の初食を頂くことを夢見ているのである。  カワハラさんやオカダさんに「ウラヤマしー」って言わせてみたいという思いも働いた。 僕は、二人に「いーダロー」とも言ってみたいのである。ハハッ。  夫人に帯も用意して頂いた。夫人は笑いながら右手をあげてククッと曲げた。そして力瘤に左手を添え「ポパイ」をして見せた。僕も「ポパイ」で「有り難う」と答えた。

 ご主人は、別れ際にジンギス・カンの歴史書(これもプレゼント、歴代のカンの功績が書いてあるように思える)に、ダラハンの住所を書き入れた。  ロシア文字でなし、革命前のモンゴルの文字とも違うような気がしたが、尋ねるすべを知らない。時間もない。お礼の手紙を書くつもりだが、ご主人の字を真似た僕の文字は、美しいダラハンの街のこの家に無事に届くのであろうか。

 8月22日、出発前日の夜。ホテルのレストランで日本から来たゲレルマを迎えた。 驚いたことに写真家の井上和博さんが同じ席にいた。井上さんはヤマギシとゲレルマを引き合わせた人でもある。今回はモンゴルの人に「選挙用写真」を頼まれたという。  井上さんに撮ってもらうと、本人は実際より3倍くらい「人格者」に撮ってもらえるのかもしれない。「そうか」と井上さんに聞いたら「イヒヒッ」と大きな体を揺すった。 井上さんは、僕の書いた「モンゴルノートⅠ」をしきりに褒(ほ)めてくれた。 僕はうれしくなって「モンゴルノートⅡ」を書く約束をしてしまった。 ああ、これから大変である。「インディアン嘘つかない」と自らの頬をつねっておいた。  小児科の女医さん、印刷会社の女社長などゲレルマの友人も同伴した。 これからの運動を支えるムンク、ビャン、バエルサイハン、ガンゾルグ、ゲレルマや新会員。そして日本人5人を含めた全員は、ジンギス・ハン・ウオッカで「これからのモンゴル」に乾杯した。

 2012年、夏、モンゴルから10人の実習生が来ることになった。 目的は、技術の習得と日本語の習得である。3年間である。 他にも、日本の大学に留学する子弟を多摩実顕地で世話をするという話もあると聞く。

思い返せば、2010年5月。 雪の中、借りたキャンプ場にアマガとガンゾルグ達でゲルを建てた。 不自由な環境で「第一回特講」を開いてきたモンゴルの心ある同志達がいる。 すでに、貯金は使い果たしたという。   小雪降る2010年、モンゴルの秋。 みんなで心を寄せて購入した農場で開催された「第2回特講」。 そこまで、何とかしてきたモンゴル会員と日本の会員達の心と力。見事でした。    2011年5月の春に開催されたモンゴル第1回研鑽学校。 その作業で基礎を打った新しい建物が、次の工事を待っている。 そして研鑽作業で植えたトマトとキウリ。

 2011年8月、キウリは、第3回モンゴル特講の食卓を本当に豊かにしてくれました。 ほんとうに美味しかった。 ちなみに大きくなった羊を、「美しい」と書く。 モンゴルでは、美しいということと、羊が大きいということが同義語になるらしい。

モンゴル研鑽学校世話係の話 永瀬Ⅰ 「あのね、日本人だったら、「聞く」というのはどういうことかと聞いたら、  こころを聞くとか、真意を聞くとかに行くじゃない。  モンゴルではね「もう聞いた。それはもう聞いた」になっちゃうんだよな  文化の違いって一言でいえないよ。  どこをどういう切り口で攻めるというかな、考えてもらえるというか。  大変だね、コリャアー。国ごと、民族ごとに考えないといけないのかナー。  ね、なんかいい手立てないかねー」 永瀬Ⅱ 「モンゴルでは、冬、地下まで凍るんで、コンクリートの基礎を厚く打つんだけどね  夕方になったら、業者がリースのコンクリートミキサーを持って帰っちゃった。  モンゴルの連中は、「大丈夫、大丈夫」って言って、残ったコンクリ打ちをさ、  夜中の3時まで、手でこねて打つわけ、そう、やっちゃう訳よ。 すごいっていうか。無計画っていうか。おもしろいっていうか。  大変っていうかな・・・・」 永瀬Ⅲ 「モンゴルの人は、段取り係を決めて、言われたとおりにやるんだっていっても   通じないのよ。  「ダーダー」って返事は良いんだけどね。昔から一人の作業が多いのかな。 作業を始めるとね、みんな勝手にやり出してしまうんだ。 通訳のビャンも「大丈夫、大丈夫、ナガセさん」なんて言うんだ。 「研鑽作業だよ。ビャン。作業がすすめば良いんじゃないんだけど」 「大丈夫ですよ。ナガセさん、終わりますから、任せてください。フフッ」 「アー。あのさァ」 まあ、こんな調子だよ。どうなるんだろうね。これから。

 言葉や習慣の壁、民族や国境を越えて、人類がもともと持っている本質的なもので お互いを理解し、信頼し、心の手を結んで、新しいモンゴルを創っていきましょう。

モンゴルの皆さんへ 一歩一歩 ひとつずつですが 確実に 小さくても 本当のものを モンゴルに 一緒につくっていきましょう 世界の見本になるように 社会の見本になるように 家族の見本になるように そして、ひとりひとりの見本になるように 全部の元は一緒ですから その元になるものを 早く知って 身につけて 人にも伝えられる人に お互いになり合っていきましょう

モンゴルで社会の核になるひとが続々出てきましたね モンゴルの社会づくりに、貢献する人がたくさん出てきましたね 支配したり支配されたりすることのない 階級のない 差別のない 自由で平等な 争いのない社会をつくりましょう

本当の幸福とはどういうものか 宇宙の理(ことわり)に根ざした 地球の豊かさに根ざしたみんなの幸福 モンゴルの草原に 人類にふさわしい楽園をつくりましょう みんなが幸福になれますように みんなが思い切り生きられますように すべての人が 自分の人生で 一つを実現し 一つを顕せるように あなたはわたし わたしはあなた 

かつて、ジンギス・ハンやフビライ・ハンの目指した世界帝国は、 争いのない ゆるやかな あらゆる民族が 平和に暮らせる社会。 交易国家として「美しい心」と「豊かな物資」に満ちている帝国の状態。 そういう社会を 創ろうとしていたように 思えます。  ゲレルマの言った「元寇は、日本と仲良くしようと思っていたんだよ」という意味が 僕なりに少し理解できたように思えます。  現代のモンゴルの歴史教育がどのようなものかは、これから学んでみようと思います。  現代日本のモンゴル研究は、モンゴル帝国が人類史上初めての世界帝国であり、資本主義の先駆け(貨幣の流通)であり、現代の民族紛争を越える発想の多民族国家であると評価し始めています。  きょうど(漢字がない)からモンゴルに到る遊牧民族の国家の歴史は、もともと多民族国家でした。  モンゴル帝国は多民族が同じ土壌でそれぞれの持ち味を発揮した国家。  ムスリムは交易に、漢民族は文化を、宗教は自由であり、税は軽く、商人に国家が低利でお金を貸したとあります。  現代の少数民族政策で苦労する中国。 過去にその少数民族を世界各地から集めて保護し、共に発展したモンゴル帝国。 もし、その豊かさが理解できずに、少数民族を弾圧したり、抑圧したりするのが中華思想だとしたら、それは非常に残念だと思ってしまうのです。  もし、後継争いや分派活動がなければ、モンゴルの帝国はもっと違った発展をしたに相違ありません。そして知れば知るほど、モンゴル帝国以後の大陸の国家に魅力がないと思ってしまうのです。

 文字を持たなかった帝国が、その後の文字を持った民族に蛮族のように書かれたりしていますが、現代になって、徐々に、モンゴル帝国の偉大さが理解されて来ているのは、現代の歴史家たちの研究成果です。  世界の歴史認識がユーラシアを基点に据えられると、ヨーロッパの位置づけや中東のイスラム諸国の認識も、もっと違った角度からみれるかも知れず、世界が平和になる根本原理が、モンゴルの歴史の中に眠っていているのかも知れない。

 そして複雑な現代社会に向けて、真の人間向きのシンプルな社会機構を用意すること。  さらに、人間理解の最短距離として、ヤマギシの考え方(一体社会)に触れる機会をたくさんつくることなのではないかと思うのです。  モンゴルの人々が創る「一体社会」や「一体の村」の姿が世界に求められているのだと思います。

 ともあれ、現代は、民族の違い、宗教の違い、思想信条の違い、考え方の違い、 そして、経済的利害といったことが、新たな紛争の火種として浮かび上がってきています。  家族、同胞、党派、民族、国家を越えて、まず同じ人間であること。 同じ空気を吸い、ふさわしい食材を口にし、自らの信じる神に祈り、自らの信条に従って生きる。  そういったありのままを、どちらが正しい、どちらが優れているといった比較する心を捨てて、大きく包んで、柔らかく、もっとも人類にとってふさわしい考え方を見いだしていく生き方。  清く、正しく、美しい人生を送れるような社会の仕組みと、 そのもとになる「一体の考え方」、宇宙の法則に添った生き方とでも言うのでしょうか。

 そういう考え方と暮らしを実践するには、多民族国家であり、遊牧の民の血流を持つ モンゴルの人たちを置いてないと思ったりするのです。  歴史をみても、元で行われた「クリルタイ」などは、一致が出るまで、何ヶ月でも会議をしたと言います。  見切り発車や多数決でなく、一致するまでトコトン会議を続けたと言います。

 大事なことほど、一致を見るまで、じっくりと討議する。 多数決のの不合理に比べると、しこりの残らない理想的な方法と思われます。 そして、意見の一致が生み出せる大本に「一体の精神」があれば、より豊かな人間社会が生まれてくるように思います。 此の辺りが「根幹」といえるのではないでしょうか。 

 長くなりましたが、去年の正月から今年の秋まで、モンゴルの人々との関わりの中で、 講習会を開催したり、話を聞いたり、心に触れたり、図書館で本を借り、資料を探したりして、つたない頭でいろいろ考えた一年でした。  その間にも、オーストラリアで5月に特講が開催され、この11月には第2回目のオーストラリア特講があります。そして今度は台湾で特講開催の運びとなります。

 日頃、乳牛の世話をしながら書き留めた文章です。 間違った記述や受け取り方の間違いがあるかも知れないと思っています。 ご指摘頂ければ、訂正しますので、ご叱正ください。 そして、皆さんの何かの参考になればと思って筆を置きます。

 モンゴル、万歳。