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図書新聞、書評欄より


6月22日発刊の週刊図書新聞より村岡到さんの著作「ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点」への書評を全文転載します。

図書新聞2013/6/22号

誕生から60年、「ヤマギシ会」は、今

「ヤマギシ会」が今もなお、「ヤマギシ村」という実験地を存続させ、その中で村人が集団生活を営んでいるという事実は画期的なことである。

 評者:黒田 宣代

 世界には、イスラエルの「キブツ」やアメリカの「アーミッシュ」のように様々な共同体が存在する。そして、日本にも過去に、武者小路実篤が創った「新しき村」など、共同体建設への試みは少なからず存在してきた。共同体建設とは、いわば「ユートピア」への希求である。

 本書は、こうした「ユートピア」を探し求めてその地を創造する人びとが、実際に我が国、日本に現在も存在していることを著した、いわばドキュメント作品である。おそらく、著者、村岡到氏は、その生活に遭遇したことで、驚き、感動し、その地で暮らす人々を描かずにはいられない衝動が走ったのだろう。

 村岡氏がペンをとらずにはいられなかった「ユートピア」とは、通称「ヤマギシ会」と呼ばれる共同体である。「ヤマギシ会」は、一言で説明すれば、財布を一つにした集団生活を半世紀以上にわたり実践し、「農事組合法人」として存続している割合大きな集団である。全国に二六カ所・一五〇〇人が参加しているという。特異な生活形態から、おのずと様々な問題――男女・親子・家族関係や教育・仕事・権力など――が生じているものの、常に「研鑽」という話し合いの場でその解決策を探っているという。

 ところで、「ヤマギシ会」を記した図書は、これまでも少なからず出版されてきた。例えば、脱会者がこれまでの生活を振り返っての日記風のものや、ルポライターが「ヤマギシ会」の裏の顔をクローズアップし、終始、非難の嵐で書き綴られたものなど三百数十冊に及ぶ。「ヤマギシ会」自身の出版物を除けば、これまでの図書は総じて「ヤマギシ会」を酷評するものが多いと言える。

 こうした中で、本書はどちらかといえば、「ヤマギシ会」にエールを贈る姿勢に立つ著書と言え、近年、出版されたヤマギシ会関連図書とは一線を画す。コインに表と裏があるように、個人や集団においては何に照射するかによって酷評と称賛は入り混じる。本書の意義は、これまで世に出た作品とは違った視座を持つところに意味があるのではないかと思われる。

 本書の構成は、ユートピアの大切さ/安心元気な高齢者と子ども楽園村/ヤマギシ会の現状/時代の要請に応えて急成長/〈学育〉の挑戦とその弱点/創成期の苦闘/奇人・山岸巳代蔵の独創性/成長が招いた「逆風」/生存権保障社会の実現/ユートピア建設の課題と困難/青年たちの声、という各章からなっている。

 私は今から二〇年ほど前に「ヤマギシ会」を研究対象としてフィールドワークを試みたことがある。当時、大学院生であった私は「日本の共同体」の存在に興味があり、三重県、和歌山県、熊本県にある「ヤマギシ村」を訪ね、そこに住む人々の生活や意識を調査した。当時の「ヤマギシ会」は、「お金の要らない村」あるいは、「幸福一大家族」と言ったキャッチフレーズとともに、メディアにもよく取り上げられ好評を受けていた。しかし、「オウム真理教」や「統一教会」などの宗教団体による刑事事件や詐欺的事件がニュースとなって、世間を騒がせると、一転して「ヤマギシ会」も上述した新々宗教団体と同一視され、「マインドコントロール」や「カルト教団」というキーワードのもとに、「ヤマギシ会」バッシングが始まっていった。私は、二〇〇六年に『「ヤマギシ会」と家族』(慧文社)を著した。

 「ヤマギシ会」は宗教団体ではない。上述したように「農事組合法人」としての集団である。しかしながら、独特の哲学(理念)をベースとした生活形態を持ち、日々「研鑽」を重ねていくという姿勢が宗教的な団体と変わらないとして誤解を生んでいる。

 本書は、「ヤマギシ会」が誕生から六〇年経った今も、顕在し、多くのバッシングにさらされたにもかかわらず、村人がしっかり生活しているということを証明した。これまで世界中に創られた多くの共同体が、いとも簡単に自滅し、その跡形もないほどに忘れ去られていったという歴史の中で、「ヤマギシ会」が今もなお、「ヤマギシ村」という実顕地を存続させ、その中で村人が集団生活を営んでいるという事実は画期的なことである。

 しかし、私たち自身の生活の中に理想と現実があるように、「ユートピア」的な世界を創りあげようと立ち上がった「ヤマギシ会」にも、例外なく称賛と酷評は存在する。思想的に受け入れられない、あるいは賛同するといった賛否両論は、「ヤマギシ会」がこれからも共同体として存続していくなかで、批判され、あるいは受容されつつ、日々「研鑽」されていく運命にある。

 村岡氏は、五〇年に及ぶ社会主義をめざす実践を支えた思想に立って、本書を書き綴ったと言える。それが著者の色である。そしてまた、本書は、村岡氏が、「ヤマギシ会」と出会い、付き合って(関わって)きた時間を考察すると、ともすれば、長所しか見えてこない蜜月期に書かれたものであるといっても過言ではないだろう。ハネムーン旅行から帰国したカップルが将来に希望をもち、相手を褒めあうように、著者の視点が「ヤマギシ会」を恋人のように見つめているような雰囲気が随所に感じられる。したがって、本書を読んだ「ヤマギシ会」の脱会者や一部のセミナー参加者に一抹の不安や違和感を抱く人びとが現れることは禁じ得ない。どう読むかは、読者自身の思想にゆだねられることだろう。

 私が本書に出会ったとき、表紙のイラスト、色使い、デザインから、今にもその表紙に陽が差し込み、新鮮で澄みきった空気とともに、のどかで温かい、どこか牧歌的なイメージが湧き起こったのを覚えている。装丁は著者の妻だという。これが、著者である村岡氏の「ユートピア」としての現在の「ヤマギシ会」への「まなざし」なのかもしれない。

 本書は、「ヤマギシ会」の生活の実態と理念を明らかにし、それを「ユートピアの模索」として考察している。その努力は、現代日本の政治・経済・社会づくりを振り返る意味で有意義であると言えるだろう。現代に生きる共同体の「存在証明」を知る上で考えさせられる一冊である。