ページを印刷 ページを印刷

『あっぱれな人生』峯尾綾子さん『献体』から帰る


1-P1110435

昨年の3月20日春日山実顕地の峯尾綾子さんが旅立たれました。享年89歳でした。
綾子さんは三重大学に献体をされていてそれが叶い、今月10月24日に文部科学省からの感謝状とともに春日山に戻りました。

彼女は70歳で参画され約20年間の実顕地生活は大田原実顕地、那須実顕地を経て2010年11月に那須実顕地村替えの動きの中、菊池夫妻に続き早々に春日山実顕地に幸節(今は佐藤)晴子さんと移って来られました。87歳でした。
晴子さん曰く「私はなかなか馴染めなかったけど、綾子さんはすぐに水を得た魚のように、のびのび活き活きしてました」と。
今さらながらどんな人生を歩まれたのだろうか?と。実顕地生活って、目の前のその人と日々一緒にやることがあるだけで案外その人の過去は知らないままですね。

6-20131028_132302

綾子さんは、「窓際のトットちゃん」の小林先生に師事されたこともあるそうです。
50代の半ばまで幼稚園の園長をされその後3年間鍼灸士の学校に通って資格を取り友人と鍼灸院を開業されていた時代もありました。
60代はボランティアとお母さんの介護の時代で中国残留孤児のことで中国にも行かれています。
お母さんの介護の後、老人ホームではなく子供からお年寄りまでが仲よく寄れる『みんなの家』を私財を投じて作ろうと計画されたようです。色々掛け合う中、計画は難航し、その後研鑽学校に参加して、1992年に参画されました。
春日山では彼女の描いていたとおりの赤ちゃんからお年寄までが仲よく一緒に生活している暮らしを味わっていました。

仲良し研で

仲良し研で

那須実顕地の時に「献体」を決心され、栃木県の自治医科大学に申し込まれていました。春日山に移動になって、真っ先にしたことは「献体」の申し込みを三重に移すことでした。中元さんや北大路さんを巻き込みちゃんと手続きもし、三重大学の献体者の会合にも参加しました。

春日山に来られてからしか知らない私は同じ仲良し班4班で、話好きのなにしろ「好奇心旺盛なおばあちゃん」の印象です。仲良し研は必ず来るし、日曜市には通っていたディサービスのお友達をつれてきたり人が寄っている場所には大概あの愛用の手押し車があったように思います。幼年さんの食事時間に合わせて愛和館にきていて、帰り際にはなにやかやと声をかけていました。

亡くなるその日にディサービスに行ってちゃんとみなさんに会ってきてます。亡くなったその日のその時間はちょうど仲良し研の日でみんなが見守る中、病院に運ばれ、返らぬ人となってみんなが待っているなかに帰ってきました。

告別式の後、葬儀場行ではなく三重大の迎えの車に乗っていかれました。
一年半後再び仲良し班で迎え、納骨となりました。その夜は親族(姪っ子)の方と一緒に陽気だった彼女を偲び、楽しい仲良し研となりました。最後まで積極的に生きたあっぱれ人生に脱帽!です。

1-DSCN0220

*こぼれ話*
私達はカステラとお茶を用意して、仲良し研をするつもりだったのです。姪っ子さんが美味しいおつまみを持ってきてくださって、「あら、、、」となって、急遽、より楽しい会になりました。

【春日山実顕地 平島春美】