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私の良さ×あなたの良さ×実顕地
【水沢40周年】


10月26日台風一過の寒風吹きすさぶ中、水沢実顕地40周年の集いが、美里実顕地で行われた。四日市供給所の一画に紅白幕をわたしただけのまさに手づくりの式典であった。集いが終われば待ちに待った食事会。それぞれの実顕地の有志たちが用意した屋台で舌づつみを打った。

屋台では久々の再会を喜び合い、なつかしい思い出話に盛り上がる光景があちこちに見られた。

【美里実顕地 沖永建介】

[40周年記念式典挨拶]

すごい僕のなかで広がりがあった

美里実顕地 川口修司

SONY DSC春日山が50周年のときに年表があって、1973年に美里農場が始まったというのが書いてあってもうすぐ40周年なんだなと思ってたけどしばらく忘れていて、黙っててもいいかなと、40年経ったからといってやってもやらなくてもいいかなとも思ってたんだけど、そういうことができる実顕地がいいなあと自分のなかで思えてきました。

それで研鑽会だけでもよかったんだけど、実際にこういう企画ができたのはよかった。

やる前に研鑽し始めてどういう企画にしようかと準備研をしたとき、どういう人に声をかけていこうかという話になって、やっぱりものすごいたくさんのひとが関わってきている実顕地なので、全員を呼ぶことはできないわけで、そこから、みんなの力で実顕地ができてきたんだなあというのが実感してきたりして、やっぱり頭で考えてるのと実際に動き始めて思うことというのはちがうんだなあと。

展示用に村人ひとりひとりの写真を撮りにまわったときに、すごい僕のなかで広がりがあって、そのときから、この40周年の企画はうまくいくんじゃないかというのがあって、今日を迎えられました。

40年経って、いろんな人たちとできたってことと、これからは自分たちで実顕地を作っていくし、実顕地だけではできないし、たくさんのひとたちと一緒になってできたらなと思っています。以上です。

心ひとつでやっていきたい

美里実顕地 安井恒平

SONY DSCこういう場で話しするのは初めてなんですけども、鶏は3歩歩いたら忘れるというのですけど、私はそれ以上に忘れやすいものですから何を話すというわけでもないんですが。

一番最初に私たち何人かで始めて2年ぐらい私はいたんですけど、ここは最初から鶏舎からなにから周りの人の協力があってこその今があると思っています。

それと、活用者の人とか最初は供給とまではいかなんですけど、有精卵を笹川団地に配達させてもらってそこから供給所として今の美里があると思っています。

昔のことしかわからないんですけども、これからどうしていくのか研鑽がいま、していきたいと思っています。

いままで以上にみんな心ひとつでやっていきたいと思っています。

どんな目標を持っていくのか

内部川実顕地 吉田光男

SONY DSC何の話をしようかと思っていたんですが、野球の話ならいいかなと思いまして。

ちょうど今年イチローが日米通算4000本安打を放ちまして、4000本安打のときのインタビューに応えて、イチローは何を言うのだろうと興味津々で聞いていたんです。松井秀喜ならファンの皆さんのおかげというだろうし、有森裕子だったら私を褒めてやりたいっていうじゃないですか。ところがイチローは4000本安打について言わないで8000本以上の悔しい思いをしたと、そういう思いと向き合って自分はきたんだ、これからも向き合っていきたいと言うんですね。これはちょっと並みの選手と違うんじゃないか、この人は10割打つことを目標としていて結果として3割であり、4000本でありとそういうことなんじゃないかとずいぶん考えさせられたんです。

今度はサッカーの話になるんですが、今年のアジアカップの日韓戦のときに韓国のサポーターが横断幕を揚げたんですね。

その横断幕に歴史を省みない民族に未来は無いと書かれていたんですね、その横断幕について日本のサッカー連盟がスポーツに政治を持ち込んだと抗議をしたということがあったんですが、スポーツはともかくとして、歴史を省みない民族に未来は無いと、これは本当なんじゃないか。

そこで歴史を省みると、水沢が始まって40年、特講が始まって60年なんですね。

春日山が始まって55年、それぞれ40年、55年、60年、その歳月のなかで自分達は何をやってきたんだろうと考えたときに、山と谷というのがあって、これはどんな歴史にもあるんですが、実顕地の歴史のなかでちょうど50年代後半から60年代は卵が急速に伸びたんですね、卵が伸びて活用者が増えて、それまでの参画者は農民が主で農民が実顕地を作ってきた。それが、供給が増えることによって一般的な市民が実顕地を作るという時代に入ってきた。で、水沢ができたのは活用者が伸びたときで内部川は養鶏実顕地として鶏舎が建って、最初の参画者は鶏舎に寝泊まりして作ってきたわけです。そういうのが50年代末から60年代。

今度は70年代から80年代に入ってくると活用者の子どもたちから学園作り、楽園村から出発した運動になっていって実顕地が急速に増えていったんですけども、そのときに四日市の活用者の人には供給車に乗ってもらったりてずいぶんお世話になりました。そういうなかで、ぐっと伸びていたときと頭を打っている時期、今はちょうど頭打ちの時期なんですけども、やっぱり歴史を振り返ったときに、良さというのもあるんですけど、良さばっかりじゃなくてそういう面も見ながら考えていかないとまずいんじゃないか。

60年代は戦争のない社会づくり、100万羽養鶏を作る、活用者が安心して食べられる食べ物を作る、そして、子どもを学園へ送ることで子どもが幸せな社会を作るという目標があったわけですけど、今これからどんな目標を持っていくのか、今はこれだという答えが無いんですが、この40周年の機会に考えていきたいと思っています。

これからもよろしくお願いします。

世界革命実践

美里実顕地 長谷川健司

SONY DSC僕は1989年の12月31日に美里に来ました。だから、23年くらい美里にいます。この23年間は僕にとっては紆余曲折のある大変な23年間だったかもしれないですけども、でも僕はそうだったかもしれないけど実顕地というのは凄いなあと振り返って思うのんだけども、僕にとっての実顕地とか村というのは、なんだろうな、一貫して仲良くやっていくとか研鑽していくとかそういうのだけで実顕地はあったなと思っていて、おかげで僕もこうしていられるんだなと思っています。
今日もモンゴルの人が来てくれてるんですけど、明日からモンゴルの実習生が二名、3年間美里でやってくれることになります。

僕にとっての、世界革命実践の書の世界革命という言葉は魅力的な言葉で、その言葉に惹かれてヤマギシに来たと思っていて、世界革命ということとモンゴルの人が美里で3年間やるというのは、僕にとっては直結してることで、ゆくゆくはモンゴルだけじゃなくてアフリカからも南アメリカからも、世界中から美里実顕地に実習に来てくれたらいいなと思っています。

それにはやっぱりなにが大事かというと、一日一日、日常の全てが大事で、僕も研鑽で進めていく人間になりたいな、仲良くやってける人間になりたいなと思っています。

鶏を育てながら人と繋がっていく

内部川実顕地 根本信幸

SONY DSC水沢実顕地は美里と内部川とで今年で40年となるんですけども、40年前の僕はまだ18歳で学生で、秋田で勉強をしていました。そのときはヤマギシというのを知らなかったし、世の中に実顕地があるというのを知らなかったんですけど、20年前、子どもが小学校の帰りに1枚のチラシを持って返ってきました。楽園村のチラシでした。それがヤマギシとの出会いでした。

それで、かみさんが先に特講に行って僕はしばらく会社生活していたんですけども、だんだん話が見えなくなってきて、これは自分も特講にいかなあかんなあと思えてきて特講に行きました。それから、研鑽学校にすぐにいったんですけども、すぐに村に来るようになったんですけども、なかなか来れなくてずいぶん会社に辞表を出すのに時間がかかって、でもやっぱり今なんとかこうしてここに立っています。

ある意味良かったなと思うのは、僕はよく会社のときは円形脱毛症ができていたんですけど、それがなくなったというのと、寝る時間が増えたというのと、もうひとつは僕は農家の4番目なんですけども、親父と母からは4番目なんだからどこに行ってもいい、世の中の役に立つことを少しでもできたらいいなあと育てられました。今こうして、実際にヤマギシでやっていてちょっとでも人と繋がって役に立って生活できていることが嬉しいです。

次は10年後の50周年なんですけども、10年先というのはまだわからないんですけども、もし、まだ自分がまだ現役でやれてるとしたらやっぱり養鶏をやってそのなかで卵と鶏を育てながら人と繋がっていくと、今もやってるしこれからもやっていきたいと思っています。

もうひとつは、じつは水沢地区で5年前くらいからお父さん研というのをやっていまして、これは男の集まりで、しゃべっては飲んで、またしゃべる、そういう集まりなんですけど、これを65回続けてきました。これを供給所の人と村の人と地域の会員さんと一緒になって、ここはひとつ社会を作っていけないかなとやらせてもらっています。

これをぼくはぜひやっていきたいと思っています。古市さん、また来てください!以上です。

世界中の人に「楽園村に行こうよ」

SONY DSC

美里実顕地 前原宏司

どうやら僕は1995年くらいにここ美里に来たようです。古くて忘れてるんですよね。子どもが1歳か2歳ごろだったと思います。

九州でヤマギシの村に来て一番最初に配達から始まって、今だに配達に関係することをやっています。そうやって考えたらずっとそうやっているなと。

全国の夏の楽園村に一万人くらい来てもらってるときにもチラシを持っていってもっと楽園村に人が来ないかとやっていたし、やっぱり今も、楽園村に来ないかと僕は言うなあ、言いたいなあと思っていて、自分の年齢は経ちましたけどやっぱりそう思う。

供給のほうは今ちょうどそういう意味で言ったらある種、谷の時期というよりは世代交代とか次にどんなふうに生産物を届けていって、どんなふうに社会のなかに僕らが伝えていったらいいのかというのを模索してる時期なんだなって毎日やってるんですけど、もう少しこういう模索に一緒にやらせてほしいなあと思って、40年を振り返りたいと思っています。やっぱり、世界中の人に楽園村に行こうよと言う立場にいたいなと思っています。以上です。

実顕地づくりをやっていこう

内部川実顕地 山本精

SONY DSC僕はまだ内部川に来てほぼ4年くらいなんで思い入れはないかなと思ったんですけど、春日山にいたときに川添さんからしょっちゅう美里の思い出話を聞かされて、美里の畑で社員のおばあちゃんから叱られたとか、カミナリが恐くてカミナリがなるとすぐ仕事もしなくて部屋に入ってくるおばあちゃんがいたとかそういう話をずっと聞かされていて、ああそうかと人ごとで聞いていて、ただ川添さんにとってすごい思い出の深いところなんだなというのが心に残っていて、そのあとスイスにもいたんですけど、そこでハンスさんに内部川の思い出というのをずっと聞かされていたんですよね。

一番聞かされた思いででよく覚えているのは、内部川から四日市の魚市場にいって食べたあんまんが美味しかったって話なんですけど、ただもうそれを話すときのハンスの若いときの思い出なんだろうなあという熱い思いというのが伝わってきて、じつはちょっと前にスイスにそのことを熱く語ってくれというメールをしたんですけど、もう忘れたよっていって返事はこなかったんです。

ただ僕のなかではスイスで直接ハンスから聞かされた内部川での思い出とか美里の思い出というのが、心には残っています。

ですから僕はまだ来てから4年なんですけど、そういうふうに美里で若いときに結婚してやってきた川添さんとか参画して日本に来て、言葉も通じないまま内部川でやっていたハンスのこととかが心には入っていて、それを受けて40周年、さあこれからなにをしていくんだって言われて、まず思うのは明日からモンゴルの実習生がふたり来るんですけど、その人たちと幸せな社会とはなんだろうというのを一緒に考えて、実顕地づくりをやっていこうと今は思っています。以上です。

私が腹決めできることとし

美里実顕地 馬場洋美

SONY DSC私は昭和36年、北海道の別海実顕地で生まれ、昭和47年、小学5年生のときに両親が内地に行くというときに、自分たちは三重のほうに行くけど、一緒にいくかここにいるかは自分で決めたらいい、みたいなことを言われた記憶があります。

私は10歳、弟は7歳、どうすると言われてもそりゃ行くでしょと自分でそう決めた感覚が残っています。

こっちに来てまず、なぜだったかわかりませんが、今の内部川と美里のあいだくらいのところに、川瀬のおじさんおばさんと一緒にアパートみたいなところで暮し、椿小学校に通いました。1ヶ月後すぐ、地元の岡さんの小屋みたいな家を借りて移り、私は豊里の学育に移り高野尾小学校に転校しました。

そのころ一ヶ月に一回家庭研鑽があり、卵や餌便で行ったり来たりしました。

遅くまで仕事をしていたので、帰るのが凄く遅かったりもしていたと思うのですが豊里の学育でだれが待ってるというわけでもなかったので、不安も心配もなかったです。

岡さんの小屋は本当に小屋で、雨が降るととにかく雨漏りだらけで、洗面器とかバケツとかありったけを並べても雨が漏れるっていうか、雨漏りっていうより水が落ちてくるみたいな、そういう印象があるけど、そんなような家でも屋根があって畳の部屋が二間あり土間の台所つきで坂本裕也さんという人と暮らせたり、なにより岡のおじさんとおばさんが本当に良くしてくれたとのちに母から聞きました。

そのころから40年経ってみて、まず私がどうしたらいいのかは私が腹決めできることとし、みんなと楽しみながら前へ歩いていきたいと思っています。

水沢実顕地が進んでいく道

内部川実顕地 石角聡

SONY DSC僕は内部川に来て二年なんですけど、ずいぶん前にもいたことがあって結婚式は内部川で執り行いました。11年前だったかな。

今回の40周年の企画を美里の人と内部川の人と進める中で美里実顕地の持ち味と内部川実顕地の持ち味がすごくくっきりとでてくるなあと思っていて、なにをやってもそうなんですけど、美里と内部川と足して2で割ったらちょうどいいとよく聞くんですけど、僕もこっちに来てみてすごくそうだなと思いました。

とにかく前に進んでいく美里と、石橋を叩いてしかも渡らないかもしれない内部川と足して2で割ったらいいんだろうなと思うのと、足せないところがまたいいんだろうなと。

内部川にとっての美里というのは、近くにいてなにかちょっと一緒にやると見えてくるものがあるというのは、いい環境というか、それを見て自分たちも良いところはまねするしまたその逆もあるかもしれないし。

そういったことがこれから水沢実顕地が進んでいく道なのかなと今は思っています。

僕のやれるところはなにかなというのはそのときそのときやっていけたらいいかなと思っています。

そういった相手の良さというのは実顕地間に限らず、夫婦間もそうだし職場でやってる人との関係も、この人には自分には無い持ち味があると見るか、自分だったらこうはしないのにと見るのかで全然世界がちがってくるというのはよくあるなと思っています。

一緒にやっていくには片目つぶって良いところだけ見ていくという話はよく聞くんだけど、目はつぶらなくてもいいんだけど良いところを見ていくというのはすごくこれからもやっていきたいなと思っています。

これからもよろしくお願いします。

ひとつの実顕地

美里実顕地 樋口幸七

SONY DSCみなさん、お腹もすいてると思うので簡単に。

僕は村で産まれて、今日は40周年というので親もたまたま来ていて、子どもも産まれて1年くらい経って思うのが、親がどういう気持ちで実顕地でやってきたかというのを考えたりするというか、子どもを見ていてふと思う事があります。

実顕地って何かなと最近思うことがあります。

これからというので、明日からモンゴルの実習生が美里と内部川にふたりずつくるんだけど、その人たちと一緒にやっていくわけだけど、実顕地という枠をもう少しこれから拡げていきたいなと思っていて、参画者に縛られないでいろんな人を受け入れて、どんな人がいつでもどんなときでもどんな状態の人でも、一緒にまずやるというのでひとつの実顕地というのを作っていけたらいいかなと思っています。

以上です。

地域の人たちを取り込んでワイワイ楽しめる

四日市市の会員 古市

SONY DSC水沢実顕地40周年おめでとうございます。豊里実顕地の橋本さんから式典があることを聞きました。

なにかやれたらいいねってことで電話いただきましてむかしここでお父さん研をやらしてもらっていたので来ました。

思い出すと私はどっちかというとアンチのほうであって、よく家内ともめたりしていまして、あのころは。

それで特講でいっぺん行ってしらべてくるわというのが本当のきっかけで、28年たつんですが、わたしももう老人になりました。あのころは若かったんです。

今日はお父さん研のひと達とネギ焼きをやらせてもらいました。このネギ焼きは当時のお父さん研で春日山の散財祭りをやらせてもらった強烈な思い出があります。

いまも毎年春日山に家族で孫も連れて楽しく足を運んでいます。

今日は一番楽しいのはみんなに会えるというので、楽しく昔の思い出話に花を咲かせたり、またこれから、一緒に今日ご出席させていただいたので、またみんなで集まってどういったことをしようかとか描いたりして、残りの人生を楽しく過ごしたいと思っています。歳をとるとそう思うんです。

それでも、暗い時は家内に慰められるっていうか、それはおかしいんとちがうかと言われたりして、ああそんなんかなあと思ったり、反省することはいっぱいです。

これからも皆さんと楽しくやりたいと思うのと、実顕地はですね、また地域の人たちを取り込んでなにか収穫体験をやったり、そういうのをやったりしていけたら、みんながまたワイワイ楽しめるんじゃないかなと思っています。

今日は本当にありがとうございます。

美里を中心に子どもと一緒に過ごした10年

豊里実顕地 岡田清・京子

SONY DSC[岡田]
豊里実顕地の岡田です。

今日はじつはモンゴル実習生たちのドライバーで来たつもりだったんですが、さきほどちょっと話してくれと言われまして。

こうやって経ってみると、懐かしい人と昔こういうことがあったなああいうことがあったなってことを思い出しながら挨拶したり、顔を見合わせたりしていたんですけど。

自分は32年前から10年近く美里実顕地の学育係でやらせてもらいました。学育係といっても、供給も行ったり鶏舎に行ったり子どもたちと鶏舎をやったりして、美里を中心に子どもと一緒に過ごした10年くらいで、育った子も、結婚したよとか子どもが産まれたよとか声を掛けてきます。一週間くらいまえに訪ねてきた子は小山田小学校の同窓会で来て、豊里にも寄って岡田さんにちょっと会いたい言ってきて、直に会えなかったんだけど、昔鶏舎で一緒に作業していてお腹が空いて空いてもう作業ができないよって岡田さんに叱られたことを思い出したとかいろいろ話してたようです。楽園村もやったし、地元の四日市の子たちとかいっぱい参加してくれて25年前の子どもたちがもう大人になって子どもがいる親になってきて、確実にいるなかでこれからどう実顕地を進んでいくかなと思いのなかでいます。

[京子]
小さい実顕地のアットホームなところ、その良さがまたお芋掘りなどで寄れる場になって、みんなが寄れる場になって一緒に作っていけたらいいなと思っています。

水沢40周年 70年代フォト


水沢40周年 1980-1990フォト