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服部さん、ありがとう、いってらっしゃい!


服部一馬さん 101歳の誕生会より(2011年 4月)

服部一馬さん 101歳の誕生会より(2011年 4月)


なんて見事な!
万全な支度で、としか言いようのない旅立ちの姿を
私達介護部のメンバ−に見せてくれましたね。 服部さん。

この二日間のお通夜、告別式に参列して
私達は服部さんの長~い人生の最後の最後のほんの短いひとコマに
出会うことができたんだなぁとしみじみ思いました。
若い頃のことは勿論、参画後の壮年の頃の活躍についても
家族の方々との色々ないきさつについてもほとんど知らないことばかり。
けれども私達が接したそのひとコマは
服部さんの人生そのものともいえるのでしょう。
深い味わいを日々感じさせてくれました。
一人でいるからって、寂しそうなおじいちゃんには見えない
なにか面白いこと企んでる子どものよう、退屈してない。
要らぬお世話などしたら、かえって迷惑だな、と。

最晩年の暮らしは、外ではデイサ−ビスの方々や主治医の先生など、
実顕地では仲よし班や家の人たち、行きかう人達みんなに見守られてのものでした。

服部さんは
誰からも好かれていました。愛されていました。 掛け値なしに・・・

服部さんも
どの人も好きだったよね。愛してたね。そうとしか見えない、あの笑顔は・・・

服部さんのように、<爽やかに、かっこよく>旅立つには?
私達に宿題を残してくれました。

【豊里実顕地 紺野満喜子】
2011年4月27日

2011年4月27日

しのぶ会や告別式で服部さんにまつわる話を聞いて、狂気的と言われても全部をかけてやろうとした本気さが新鮮に入って来て、純粋にぶれることなく貫いてきた服部さんの生き方が心に残った。そういう生き方を身を以て示してくれる人でした。

父親の参画に反対して東京に行った長男に宛てた「お前が反対しても親子の縁を切ってでもどうしても行きたい」と書いた服部さんの涙でインクが滲んだ手紙。目先の家族より、家族が大事だからよけいに、初めの頃の人の意志の強さかなぁ。

服部さん夫婦と日光会館で駐在員をやらせてもらったのは短い期間だったけど、楽しかった。おじちゃんは料理が得意で、魚料理はおばちゃんより上手で、毎月研鑽会があって関東や東北の人達の集まりの場になっていて評判がよかった。おばちゃんはなんにもなくスーッと人の心に入っていけるようなところがあって、韓国の人がヤマギシに来るきっかけにもなり、韓国実顕地に繋がった。

安土さんは豊里の最初の頃参画して服部さんに受け入れてもらったので、沖永さんの弔辞を聞いて思わず拍手したくなったと言っていた。私も沖永さんの渾身を込め、確信を突いた話に強く感じるものがあった。3人の息子さん達にも伝わったと思います。「誇りに思う」とか「こういうことを考えていたのかと理解できるまで50年かかった」とか「豊里の地を見に来た時草ぼうぼうでジャングルだった。こんなになるとは思わなかった父は偉かった」と三様に話していたので、きっと。

【豊里実顕地 安土由美子談】

服部一馬さんを偲ぶ

昭和36年、服部一馬さんが参画を決意して長男に宛てた手紙を、長男が50年間大切に保管して、今回それを実顕地の人に見てもらいたいと持ってきました。
「最初、父が参画したいと家族に言ったとき、親戚みんなで反対の声を上げ、父に参画を思いとどまらせました。今から思えば、もっと早く参画させてあげたかった。」と、告別式の最後に挨拶していました。

春とは云へ今尚寒い日がつヾきます。
相変らず御元気で御働きの事と存じ喜ばしく想います。家も祖母様始め至極く元気で暮して居りますから何卒御安心下さい。
扨て一昨年の事件以来常に御心配を掛けつヾけて居るであらうと想はれる、父が又再び突然な御便りをして又驚き又寂しく想はれであらうと云ふ覚悟でこれから順次書きつヾけますから、よく味ひよくかみしめて、読んで貰ひ度いと存じます。
既に新聞やラジオを通じて御承知の事とは存じますが社会の激動せる世想は過去の人間社会の末期的な様想を呈し追ひつめ追ひつめられて、行く処を知らないと云ふ様な姿ではないでせうか。
 政治はいよいよその貧しさを呈し、経済界、思想界は益々はげしくゆれて行く様子ではないでせうか。そのときに際し私達山岸会、会活動もいよいよ本格的な動きを見せ、昨年八月東京に於て学者、政治家、左よく右よくの人々、加へて外交官、トップクラスの人々の間に特講を受講されヤマギシズム社会の在り方につき深く関心を持たれ、それがきっかけとなり名古屋、京都、和歌山、岡山の各地に特講を開催され、今度又三重県津市、県市町村会館に於て、県下警察関係、裁判所関係を初め、政界、学界の大物と云はわる人々の大特講を法政特講と云ふ名のもとに大々的に開催の運びを得て既に準備をされて居りますし、各地よりの受講申込みが続々と来て居る様子にて、それと呼応して各県各地に於て農村の共同化、一体化も芽生へて来ました。何れ近々国内全般に亘り共同化、一体化は目の前に迫り現状の姿では到底行けなくなって来たのではないでせうか。
 津の法政特講を目の前にして一日も早く一体社会のヤマギシズム社会へ飛び込んで行き度いと存じます。そうして老ひの祖母や母を一日も早く楽しい人生生活に入れてやり度いと存じ、又私も思ふ存分会活動に熱中してみ度いと存じますので、今度は充分腹をすえて生活実践地春日山へ行く決意をしました。
 恐らくお前には許して貰へない、理解して貰へない事を覚悟しながら決意をしました。鬼の様な親と御想ひの事とは存じますが、今の私にはそれに生くるより道のない私です。 お前も人間的に大変成長して呉れました。特に人に愛されて生くる人間として成長して呉れました。父は嬉しいです。想はず涙が出て仕方がありません。愛するが為に真に愛するがゆへに父の真意ある処を知って欲しいと想ひます。
 お前の頭の中から長男である、家がある、責任があると云ふ気持ち丈は捨てて呉れ、そうして、人間本来の姿として東京の地に想う存分働いて呉れ、成長して呉れ、一見余りにも無慈悲な親と想ふだらう、又愛情のない親とも想ふだらう、然しよく深々と考へて呉れ、私は真当に愛するが故に真に可愛いいが為めに云って居る事を。それが為に総てを整理して生活実験地に飛び込んで行く、驚々であらう、無理からぬ事とも想ふ、然し今の父には真実を求め真実に生くる道のみしか知らないのだ。
 お前に贈る何物も残らないであらう。然し無形の愛は終生私の身体より離れないでせう。
 早速と鬼の様に想はれるであろう父に返信を呉れ、何れ其の上に於て理解して貰ふ処迄、話し合ひ度いと想ひますから。
 誠に勝手な云ひ分ですが一足早く理想の社会へ飛びこんで行く事を御許し下さい。
 何故にこんな気持ちになつかと云ふ事も余り遠くない時期に理解して貰へる事と存じますが。
   三六年三月二日      父より

2013年 11月3日より

2013年 11月3日より

弔辞

沖永和規

 百三歳のおじいちゃんを前にこう言うことを言うのは失礼ですが、服部さんは天真爛漫な子どもみたいな人でした。いつもニコニコしておられて、この世の中、楽しいことしかないよというような顔をしておられた。その姿は、年を重ねてからのものでなく、昔からまさに人生これ快適なりの生き方として服部さんの人生に一貫していたと思います。
一九六九年、新実顕地構想に参加して豊里実顕地を発足させました。初期の実顕地は実顕地生活の内容さえ分からず手探りの状態でしたから、混乱や動揺も有り、色々なことがありました。また、豊里実顕地に実顕地本庁を置き、その事務局の仕事を長くしておられましたが、全国の実顕地も、全国一つとは言うものの、それぞれの実顕地は一国一城のように個性が強く、今とはちがって、なかなか纏まるものではありません。そんななか、服部さんはなにがあっても、困ったなあと頭をかきながら、しかしちっとも困ったようすでなくて、柔和な顔で粘り強くいつもみんなの話をきいておられたのを思い出します。
 服部さんが書かれたもので私の好きな文章があります。
 旅から旅の薬の行商をしておられた服部さんは、特講を受けたときのことを次のように書き記しておられます。
 「行商しながら世間をまわっていると、正直者が馬鹿を見る、まじめな者ほど損をする実態を見、人生とはあまり深く考えないでフタをして通り過ぎるべきものという人生観を持つようになっていた。それが特講の一週間にしてすべて一変したのである。見る物聞く物みな美しく、考えれば考えるほど楽しくおもしろく、これが真実の人生であり、当然の姿であることにきづいて、ほとんど狂気のように走り回り、歓び、かたったものであった。事実、あまりの感激に周囲の人達からは狂人のようにおもわれていたであろうことも知っている。」
 これは豊里実顕地発足二年目、服部さん五十九歳の時の文章ですが、この文章に接したとき、服部さんがいつも楽しそうに明るく出来ている原点はこの特講にあったんだ、と思いました。特講の時から一貫して今の姿があったのですね。
 そういえば、むかし、服部さんはよく魚つりや霞網の話をしてくれました。それは本当の魚採りの話でなく、全部特講送りの話でした。表向き薬の行商人は実は特講拡大の鬼だったのです。どうやって特講に送るか、そればかりを考えていて、実践した服部さんの特講送りの話はいつもおもしろかったですね。薬の行商の経験を活かして、全国津々浦々、特講送りに明け暮れて、実際、服部さんに特講を送られた人は全国あちこちに居られると聞いています。
 その特講にかける熱意こそ、今の私たちの学ぶべき事だと思います。
 実顕地創設時からこれまで、幾多の困難と障碍を乗り越えてきたといいたいですが、確かに色々なことがあったけども、やっぱり、楽しかったですね、服部さん。おもしろかった。苦労という風にはちっとも思わなかった。私たちもそういうふうに思えるようになっている。その生き方こそが服部さんから教わってきたものだと思います。
 後年、あまり話は出来なかったけども、いつも部屋の近くの道ばたに腰掛けておられて道行く人を眺めておられた。私が通ると寄ってきて肩をぽんぽんと叩くだけだったけど、それだけで十分通じたし、それだけで、そうか、知らず知らずうつむいて歩いていたか、よしまた楽しくやろうという気にもなった。
 服部さんは触り魔でしたね。とくに若い女の人に触ることが大好きで、いいなあ、服部さんは、女の人に触っても誰からもおとがめがないし、私も年取ったらああいう風になりたいなあと思ったものです。
 服部さんはどんなに年を重ねても、実顕地の動きにいつも敏感で、アンテナを延ばしていました。だから、今では、服部さんの孫に時代に当たる若い人達が思いきりこの舞台で踊り回っている事もよくご存じでしょう。
 彼らは、服部さんら先達の築いて来た道をさらに大きくし、深く掘り下げながら、ヤマギシズム運動に邁進しております。
 服部さん、これからもちょっときついかなと思ったら、またあの笑顔を思い出したいです。肩を叩いてくれたぬくもりを忘れないでいたいです。そして、特講にかけた情熱を改めて奮い立たせ、拡大運動を勧めたいです。
 どうぞこれからもその笑顔でお見守り下さい。
 そして、脈々と繋がってきたこの大道をまた一緒に歩いて行きましょう。
最後に、服部さんが残された次の言葉を改めて私たちの肝に銘じておきたいです。
「私は一層真なるものを見極め、真なる生き方をして世に問うとともに、世界は一つを目標に、自然全人一体の永遠の繁栄と真の幸福招来に、命の続く限り、がんばっていくと念じている。人生これ快適なり 服部一馬」
有り難うございました。

平成二十五年十二月十四日           沖永和規

1971年にルック社から発行された「Z革命集団・山岸会」に服部一馬さんが、寄稿されていますので紹介します。

ヤマギシズム生活十年の追想

服部一馬(豊里)(当時61才)

 東天紅とともに、また新しい今日を迎えた。輝かしい太陽は、遥か東方伊勢湾に映じて美しさを増している。ここ、ヤマギシズム生活豊里実顕地は周囲を見下す小高い丘陵地にある。空気はおいしく、人間にも鶏群にも最も住みよい地点の一つである。ヤマギシズムがこの地に根をおろしたのは一昨年(1969年)春である。私も当初よりの一員として、私なりの仕事に快哉を覚えつつ働いている。
 今からちょうど14年前、京都において行なわれていた特講に参加したのがキッカケで、私の人生観は一変したように思う。
 私は父業をついで30余年、旅から旅への旅烏、家庭薬の行商を続けていた。5千戸あまりの得意先を周期的に訪ねながら、幾千幾万の人達に接して教えられること多く、今なお私なりに社会勉強ができたことを嬉しく思っている。また、それらの人達に対して敬意を表しているとともに、懐かしさを覚えている。しかしながら、正直者が馬鹿を見る、真面目な者ほど損をする社会実態を見、味わい、深く考えれば考えるほど不愉快で、人生とはあまり深く考えないで蓋をして通り過ぎるべきもの、というような人生観を持つようになっていた。それが、特講の一週間にしてすべて一変したのである。見るもの聞くもの皆美しく、考えれば考えるほど楽しく面白く、これが真実の人生であり当然の姿であることに気づいて、ほとんど狂気のように走り回り、喜び、語ったものであった。事実、あまりの感激に狂っていたのかもしれない。周囲の人達からは狂人のように思われていたであろうことも知っている。
 以来家業も手につかず、旅に出ても商売は後回しで、特講への呼びかけに集中した。三人、五人、十人と送り出せばそれだけ喜びが深まり、私の生涯賭けての仕事と決意し、あのにぎやかに騒がれた「山岸会事件」の直後、周囲の大きな反対を押し切って過去の一切を整理し、家族共々春日山(ヤマギシズム生活中央調正機関)へ参画した。そのときの様子は、私の生涯にとって実に劇的な一面であり、また、越えねばならぬ一線でもあったのだと、今でも思っている。まず自らその名のごとく試験台に立ち、公人の初歩として山岸会本部の所属となり、関東事務局日光市所野を拠点に、関東・東北地方拡大の旅に走り回ることで5、6年を過ごした。
 同じ考え方で、同じ途を行かんとする同志の人達によって、各地に小さいながらもヤマギシズム生活実顕地と呼ばれるものが誕生してから数年、私を含めた全人幸福への社会造りとしてはあまりにも規模が小さく、その機能を十分に発揮できないとするところから、どこからとなく適正規模(50戸、構成員200人くらい)の新しい実顕地を造ろうではないかという声が出てきた。早速、私もその一員に加わり、発足当初は10人足らずの人員で、同志を求め、土地を求めて各地を走り回った。そして、さいわいにして温暖の地、ここ豊里に根をおろすことができたのである。
 私達の目指すヤマギシズム社会、不幸な人の一人もいない社会、真実の社会は、いまだかつてなかった新しい社会であり、機構そのものも根底から異なっているように思われる。それがために、話しても説いても理解され難い点も多く、話せば話すほど不可解になる点もあるようで、話すことよりも創ることが先決かに考えている。
 しかしながら、ようやく芽を出し始めたばかりの新芽であり、限られた力、限られた知能のため間違いも多い。よりよき方向、より早期の実現を得るためには、多くの人達の知能と力の結集が必要とされる。事実、私達だけでできることでもなく、万人と相共に造り上げていくべきものであることも十分承知しており、明日に生きようとする人達の持てる知能と力を、持ち寄られることを念じている。
 自然と人為の調和を離れて人生はなく、またこれを離れて安定も平和も成り立たないように思われる。ひとり私だけの社会でもなく、かつ人間だけの世の中でもない以上、すべてが満たされていく考え方・生き方が本当ではなかろうかとするのが私達の考え方である。人間中心の考え方が行き過ぎると、今日のように農薬公害等の問題が当然出てくる。そして、その苦しみを人間自らが味わうという結果になるのである。
 私は久しぶりに昨年(1970年)春4月、故郷入りした。ちょうど幼少の頃より思い出深い田舎の氏神祭礼の日に知人を訪ね、何かと御馳走になった。私が故郷にいる頃は、春のお祭りといえば水田地帯の関係でタニシやドジョウの御馳走が出たもので、私の好物でもあった。それが今では、一個のタニシ、一匹のドジョウの姿もないようで、年々強力な農薬を使用するため全滅してしまったらしい。私は実に重苦しい思いで語らねばならなかった。
 水田地帯で、しかも陽春四月というのにドジョウもタニシもいなくなったということは、やがて人間共もあまり遠くない時期に生命を奪われ住めなくなるぞと、大自然が語り聞かせているのではなかろうか。愛児愛孫のため、今こそ共に真剣に考えるべきときではないだろうか。産業公害、農薬公害など、ようやく表面化して問題にされつつあるようだが、その公害をどうするかも重要なことながら、その元の元になっている人間自身の考え方を、より重要視しながら取り組むべきときではなかろうかと。
 こうした問題を具体的に解決していくために、自然の理法に即応して、化学肥料を一切使わず一回の農薬も使用せずに、おいしい野菜や果実等を生産し、直販所を利用して消費者に直接安価に供給すべく目下計画中で、近く実現の運びにしたいと考えている。奪い合いの社会から与え合いの社会造りへのキッカケともなれば幸いである。
 ヤマギシズムが世に出て10余年、各地各層の人々の頭脳革命により、あらゆる分野でいろいろな動きを呈していて、見えないものが動いているように思われる。私達も一層真なるものを見きわめ真なる生き方をして世に問うとともに、世界は一つを目標に、自然全人一体の永遠の繁栄と真の幸福招来に、余す生命の続く限り頑張ってみたいと念じている。