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美里実顕地での素晴らしき生活体験


Pin-chieh Chen

昨年の11月に「中国語通訳特講を共に創りたい」と来日して、美里実顕地で生活体験した
台湾の陳品潔さん(2012春・特講、2013年夏・研学)が、滞在記を送ってくれました。
 実顕地での暮らしの中で、多くのことを感じ、考え、これからの陳品潔さんの人生の糧になった様子が書かれていますので紹介します。
 長文ですが、読んでみて下さい。

【東京案内所 松本直次】

美里実顕地での素晴らしき生活体験 【台湾 陳 品潔】周 栄栄さん訳

 今回の美里実顕地生活は、以前の3回のヤマギシの実顕地体験に比べると、とても温かく、充実していて、しかも「実家に帰った」というリラックス感と自由自在感も感じました。
 私は去年、人生初めての研鑚学校に参加し、その後、Ritaさんがインタネットで華人地域向けのE-mail研鑽会を立ち上げてくれて、11月の中国語通訳特講を創る研鑚をしていました。
 そして、生活と仕事でなかなか余裕のない私にとって、この特講期間に自分は何ができるかと考え、現在のボランティア生活がますます忙しくなりそうだから、今回を機にみなさんに会いに行かないと、もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれないと思い、思い切って日本訪問となりました。

◇実顕地は不思議な世界
 日本の友達と絆を築くために、同僚が用意してくれたオクラジャムと、自分が用意した里仁のお菓子、里仁楽活農夫市場の農家の友達が作ってくれた干し筍を持って、大阪空港に着きました。
 私を迎えにわざわざ関西空港に来てくれた近藤さんに、三重県四日市市にある美里実顕地に連れて来てもらいました。
 ヤマギシ会の訪問は4回目ですが、とても不思議だと思いました。実顕地に来ることができて、限りのある命の中で、沢山の「家族」と一緒に暮らし、血縁関係がなくても家族に近い絆を育むことができて、友達が少ない私にとっては本当に不思議だらけです!!

◇とても斬新で面白い体験の連続
 美里実顕地で、毎日は少なくとも20名以上の家族達と話しました。名前はよく忘れてしまい、本当に申し訳ありませんでした。いつもしたのは食堂での野菜切りと厨房の後片付けの仕事です。そしてお風呂場の清掃です。
 野菜出荷場に行って人参の包装をしたその日はちょうど朝市の日でした。中村さんの助手として焼きとりの屋台でお客さんに声をかけて、とても楽しかったです。実顕地に何回も来ましたが、働きアリみたいに、いくつかの実顕地に行ったり来たりするのが、とても斬新で面白い体験でした。
 春日山で新春発表会に参加に行ったり、芙美子さんと一緒に内部川で背中のマッサージをしてもらったり、豊里でおそばを作りにも行ったりしました。
 ある日、Ritaさんのお誘いで豊里実顕地で子牛の世話をしました。お昼寝までの空いている時間を利用してRitaさん主催のベーカリクラブに参加もできました。牛の世話係の人たちと一緒に「玉ねぎ定植リレー」にも参加しました。
 美里では芙美子さんからよく「特にやりたいことがありますか?」と聞かれました。芙美子さんは私が希望したことをみんなと連絡を取り「品潔さんに何ができそうか」と聞きに行ってくれて、掲示板の私のスケジュールにその都度新しい項目が増えました。「研鑽‐討論‐再研鑽」の繰り返しの中で、私のスケジュールが充実しました。私の一時の思いつきだけでも、芙美子さんと研鑽した後に、実践可能だと判断すると、直ぐに行動になって、ゲストのために特別に設けた生活スタイルではなく、実顕地の全ての人たちの中で、面白くて充実している生活になりました。

◇壁に飾られた絵と語り、心の声を聴きながら
 実顕地の片隅には芸術品が意外と目に入ります。素材が様々で、油絵や華道作品、書道作品など。日本庭園までもありました。ロビーにある窓から秋の景色の和式庭園が綺麗に見えてきて、まるで壁画のようでした。ソファーに座り、秋の暖かい日光を浴びながら、壁にかかっている絵を眺め、そこの静かさに心の底から満足感がいつも湧いてきました。
 事務室の前を通った時、一つの絵に目が惹かれました。何本かの大きな木が一本の小さいな木を囲んでいて、この小さな木は、ヤマギシ会の家族たちの暖かさに包まれているではないかと思いました。その小さな木のように、私は大きな木に守られている環境にいて、大きな木は小さな木の見本であり、頼もしい長者でもあります。この絵を通して、愛のエネルギーを世界中の全ての人たちに送られ、そしてヤマギシ会で暮らしている人たちが果たしている命の伝承の使命も語られているかと思いました。
 美里実顕地の壁に飾られている絵は、ほとんど竹内勝行先生の作品です。竹内先生も実顕地の村人の一人です。彼の作品は、森に差し込む曙光のように、暖かさを与えてくれて、静かに幸福を感じました。幸いに、人気の少ない森にあるATORIA美術館を訪れることができました。そこが竹内先生の創作場と美術館です。命との対話を語った素晴らしい作品がここで見ることができます。ある大きな絵に、木の幹が空中に浮かんでいるように描かれ、空中から伸びてきた主根が枠にくっついて、何かとの繋ぎを一生懸命に掴み取ろうとしているように見えます。自分がこの木だったら「いったい何を掴みたいだろう?」「命の拠り所は何なんだろう?」「人類の根本は何なんだろう?」「私の根本は何なんだろう?」といろいろと連想をしていました。絵の中の木は、言葉の壁を越えて「自然は人類の根本であり、切り離せないんだ」と教えてくれました。椿大神社の千年神木のように、時が流れて行く中、静かに大地に宿る様々な命を見守っています。竹内先生は「芸術が心と対話する一番いい方法は静黙だ」と。心の声に耳を傾けられるからです。生活も芸術品ですよね。

◇研鑚の奥深さに触れて
 もう一つの体験は「いつでも研鑽、計画が変化に及ばず」です。
 研鑽は何ですか?なぜ研鑽するのですか?人生の出会いは、すべて縁にあり、山あれば谷もあり、生老病死、人の心はいつでも変化に追い付こうとしていて、そして人生は起きた様々な変化に合わせてペースを調整しています。研鑽は一つのいい方法です。研鑽という基本態度を通して、自分との深い会話ができて、人生の種々の変化に臨時応変もできます。私にとって「研鑽」という方法を使うと、自分の心の奥底までに深い会話ができるようになり、この会話を回りの人に出して、反応を起こし、そして再び心に戻り、自分の成長にまた繋がります。人類の理解力と言葉はそれぞれ違っていると思います。言葉はとても直接でパワフルですが、人間を感受性と習慣の奴隷にしてしまい、観察力と思考力を無くさせる恐れがあります。例えば、同じことに対しても「なぜ人それぞれ違うことを考えるんですか?」「なぜこうしますか?」「ジェスチャーはどういう意味をしていますか?」というのを観察して考えないといけないです。日本語があまりできないため、観察と思考のチャンスをいっぱいいただきました。自分の心とのより深い会話がたくさんできました。

◇実顕地生活者の品格
 実顕地での生活には、専門家と自称する人はいなく、学歴で人間の価値と可能性を評価する人もいません。参加する意欲だけを出せば、村人たちが研鑽して可能だと判断すると、ポストをすぐに与えてくれました。そしてベテランの人が一から教えてくれます。一見専門的な仕事に見えても、慣れたら思い通りに進みます。でも、ちゃんとできるようになれるかどうかはやはり自分次第です。「何を学びたいですか?本当に学びたいですか?」学ぶ願望さえあれば、自然にできるようになります。
 愛和館(食堂)で野菜切りを体験するときに、同じ種類の野菜でも、料理の種類によって切り方も違ってきます。ベテランであろうと、新人であろうと、切る前に必ずメジャーでサイズを測り、試しに切ってみて、サイズが見本通りだと確認した後に、素早く切ります。そこにいる何日間で、新人からベテランになるプロセスを体験してきました。切れば切るほど、挑戦欲が湧いてきてどんどん楽しくなってきました。玉ねぎの辛味で顔が涙だらけになって、間違って手を切っても、血を止めてからまだ続けます。野菜切りの良い気分に何の支障も生じませんでした。「切る切るピンちゃん」というあだ名まで付けられました。
 実顕地の生活者たちの「手順を踏んで、丁寧に細かく、心を込めて、全身全霊」といった態度にとても感心し、自分もそういうふうになりたいと思うようになりました。私は、もともと「気まぐれで、深く考えずに、自由自在、一匹狼」のような性格の持ち主でした。ここでは自分の命の根本が見つかったような気がします。自分を実顕地生活者の品格の持ち主に導かれました。

◇生活の中に幸せを感じさせる源がある
 こんなにまじめに生活している人達と一緒にいて、プレシャーを感じるどころか、とても喜んでいます。食堂の後片付けの後に、芙美子さんに「品潔さんは本当にまじめにやっていますね!」と褒めてもらいました。まったく考えずに「芙美子さんが真面目だから、私も真面目でないと」と言いました。どうしてこんな直観的な反応が出たのかと考えると「この団体の一員になったら、ここが自分が生活している場所でり、ここの隅々までに自分の足跡が残るから、ベストを尽くして一所懸命に仕事するのはおかしくない」と思いました。
 私が作った干し筍の炒め物は美味しいとか、あの人が作った果物が甘いとか、その人が生けた花が美しいとか、この人が入れたコーヒーが美味しいとか、お互いに褒め合い、肯定し合います。ここにいる人たち皆は美しい心の持ち主です。肯定するしかなく、否定はなかなかしません。自分がしていることが作品のように褒められると、心無く創作する芸術家はいないでしょう。毎日の「研鑽生活」を通して、心の奥底にもっとも真実に近い考えを見出してくれて、努力して実践をして、いずれ自分もこの可愛い家族たちのようになりたくて、美しい心の持ち主になれるように頑張りたいと思っています。
 実顕地で暮らしている人々達は、お互いに真心を込めて相手のことを考え、世界平和という共通の目標に向かって、一緒に一生懸命に仕事をしています。これは血液関係を超えた大家族です。「四海の内、皆兄弟なり」は実顕地で実現されていました。家族のように生活していても、気持ちのすれ違いや習慣の違いなどでトラブルが起こりかねます。村人たちは「自ら反省する」「零位に立つ」習慣があるから、研鑽を通して、物事について一緒に話し合い、それぞれの意見を聞きながら、みんなが納得した案を出して、同じ方向に向かって頑張ります。途中でも考え直して、また研鑽を通して、再びみんなが納得するまで話し合い、手に手を取って前に進みます。実顕地で効率よく運営ができて、秩序をちゃんと守られるカギとは、研鑽に頼るだけでなく、その背後にあるのが、一人ひとりの心にあるお互いへの誠意を込めた受け入れと尊重だと思います。それが幸せを感じさせる源だと思います。この10日間は、実顕地間の助け合いと協力し合いを感じて、一生懸命に働いて豊な生活を送り、心も研鑽で充実していました。

◇ここには私が追求している人生がある
 なぜ実顕地での暮らしがこんなに幸せだと感じましたか?
 実顕地では、身分や地位、外見を評価するような価値判断がなくて、自分の能力範囲で仕事を選び、疲れると休み、強制されたことがなく、尊重されるしかないからです。誰でも優しく接し合い、他人のため、世界のためにもっとしてあげたいと思っています。「人と人、人と自然の幸福・協和の社会」という大きな目標を実現させるために、皆はとても忙しい生活を送っています。外来者の私から見れば、呼吸することすら忘れそうになるぐらいの速いペースで生活しているのに、自分が忙しいと思っている人はどこにもいません。いいえ、厳密にいえば「忙しい」という言葉で生活のペースを表したりしないです。北大路さんの話によれば、自らやりたいと思っていることをしているから、忙しいと感じるわけがないです。忙しいとは「心をなくした」という意味です。その時「幸福を手に入れるかどうかは、心をなくしたかどうかで決まる」と意識しました。自分の幸せだけを考えると、円満になれないと気付きました。個人の幸せは全体の利益に基づいてこそ、本当の幸せを手に入れられます。ヤマギシ会の全員は心一つで同じ願望を持って「世界の平和、人と自然の協和を求める」という目標に向かって努力しています。これは私が追及している人生でもあります。

◇お金が介在しない豊かな生活
 ヤマギシ会で10数年も生活していた育恵さんに「なぜ実顕地に入ったの?」と聞きました。「女は嫁入りしたら夫のよしあしにかかわらず一生夫につき従う。」と最初にそう言ってました。
 入ってからこの賑やかな大家族の中に、毎日はとても充実していて、どんどん良くなっていくと気付きました。「お金が必要ない」というところがとても素晴らしいです。お金に気を遣うことがなく、とても楽になってきました。市野さんの見解を聞き、自分にとってお金の意味を改めて考え直すようになりました。台湾で毎日お金を身に付けて便利な生活をしている自分と比べると、欲しければすぐ買っちゃうが、本当に必要ではないものを買ってしまい、買ってから全く使わなくてゴミになったものが、逆に環境と心の負担になっていました。社会が便利になった裏に、貪欲が満たされるだけでなく、必要のない欲望と煩悩も招きかねません。なぜお金を使わない実顕地での生活は、逆に体も心もとても豊に感じさせるのか。永久に裕福を求める社会にいる人々にとって、深く反省する必要のある課題だと思います。
 美里実顕地の村人たちと一緒に仕事をし、同じテーブルでご飯を食べ、ご飯のお代わりをしあったり、日々起きた面白いことを共有し、心込めて一つ一つのことをきちんとやる中で、数日いるだけで、もともと見知らぬ村人とも、いつの間にか自分の家族になりました。
 村人たちと一緒にいる記憶が心に溶け込んで、どこに行っても、記憶がある限り、「私たちは一体である」といつも感じることができました。一体生活を体験することで自己発見にもつながり「実顕地の距離は遠くとも、心の距離は遠くない」というのが、美里で皆と一緒に生活させてもらった本当の意味のようです。

◇これからの希望と抱負
 命は一連の連鎖反応のように、アイデアがあれば自然と実現する不思議なものです。
 これが実顕地生活での一番大きな収穫です。心が命を反映しています。命は絶え間なく超えられ、導かれていくものだとより感じました。命の様々な可能性は、自分の考えに縛られるべきではなく、命に対する理解をより知ることができて、命の実践にも運用します。
 人は変わらなければ、自信や見本そして知識だけで実践できるわけがないです。美しい社会で、同心同意で助け合いながら、エネルギーをどんどん生み出す人々が不可欠です。なぜ実顕地の人々と家族のように感じられたか。これからも、血縁関係のない人に、こんなふうに接することができるのか。自分はまだまだ小さいな存在ですが、実顕地の人たちのように、一生懸命に努力して他人の幸せを満足させるという美しい心構えが、私の心の奥に少し伝わったような気がします。自分を自分にも感動させたいです。この感動のため、命のある限りで頑張っていきたいと思います。

—《中国語の原文》———————–
美里實顯地的美好生活

1) What plan and expectation did you have on the process before you arrive Jikkenji ?

相較於前三次的實顯地的經驗,此次在美里實顯地生活的日子溫暖而充實,並多了一份「回家」輕鬆與自在。去年參加人生中第一場研鑽後,2014年8月Rita在網路上發起華人地區的email研鑽群組,請大家在這個群組上研鑽11月份的中文特講發展的種種可能性。盈如是今年中文特講第一位報名者,報名不久後,Rita提出研鑽小組中是否有人可以來特講擔任關懷員?當時生活與工作分身乏術的我,不斷地思考自己再回去實顯地的動機與目的,想起峰尾綾子奶奶對於「世界和平的身體力行」的態度,還有像是父母一樣關照我的新村夫婦,心想「現在的義工生活愈來愈緊湊,如果不趁著這次回去看看大家,這可能是我最後一次回去了。」、「平時受到實顯地村人這麼多照顧,自己能夠做些甚麼呢?」頓時鐵了心,決定回去看看久違的朋友~

2) What did you think while you really lived Jikkenji life ?

帶著同事想要與日本友人們結緣的山葵醬與自己準備的里仁小點心,還有里仁樂活農夫市集農友製作的麻竹筍干啟程到大阪空港,專程來接機的近藤先生帶著我從關西空港直達位在三重縣四日市的美里實顯地。這是我第四次來到山岸會實顯地,心理還是覺得「很不可思議!!」。雖然未如願擔任關懷員,但是此時此刻能夠來到實顯地, 能夠在自己有限生命裡,和這麼多「家人」一起生活,滋養出無血緣卻近乎家人互動關係,對交友圈不廣的我真是太不可思議了!!

在美里實顯地,每天至少會遇到二十多位以上家人,常忘記人名這件事,覺得非常抱歉。最常分擔的工作有食堂切菜與廚房場地善後,其次是清理風呂澡堂,偶爾也會去野菜出荷場包裝紅蘿蔔。恰巧遇到朝日市,當起中村先生的燒烤攤位助手,跟著招呼叫賣,覺得很開心。來實顯地這麼多次,像是工蟻在一天穿梭在好幾個實顯地,是新穎而有趣的經驗。有時到春日山聽新書發表會,有時則是陪著芙美子去內部川整脊,也到豐里做蕎麥麵。其中一天,受Rita之邀,到豐里實顯地當小牛的奶媽,還趁著午休空檔參加Rita的烘焙俱樂部,再從午休時間撥出20分鐘,騎腳踏車到附近灑滿秋意的草皮上小憩。餵完小牛午餐後。小牛奶媽部隊中抽出一些人,繼續參加洋蔥接力。所謂的洋蔥接力是指「在豐里邊郊一塊預計種50萬顆洋蔥的田裡,種-洋-蔥!!」。在美里擔任國際事務窗口的芙美子經常問我「有沒有特別想做些甚麼?」然後她就會我希求的那個組別溝通:「品潔桑可以做些甚麼?」於是,我在交誼廳佈告白板的行程又多了新節目。我的行程就在「研鑽-討論-再研鑽」一來一往的過程中愈來愈完整。有時侯臨時起意,芙美子和我研鑽後,覺得可行,就先作為快。這樣的生活,並非針對某一特定來賓而設計,而是實顯地的每個人,過著正是如此有趣而充實的生活。

經過實顯地許多角落,常會意外地與藝術品相遇。素材多元,有油畫,花道,書法字畫。甚至是庭園造景,尤其是交誼廳的落地窗,框著秋意正盎然的日式庭園,儼然是交誼廳的大壁畫。當自己坐在交誼廳沙發上,享受秋日溫暖的日光浴,凝視著牆上同樣充滿秋意的小壁畫,寧靜平安的感覺使我突然打從心裡發出滿足的輕嘆,那時,我知道正與美相遇。有一次經過辦公室,被一幅畫作吸引,畫的是「好幾棵大樹圍繞著一顆小樹」,頓時我突然好像是那棵小樹被山岸會家人的溫暖層層包圍。我就像這棵小樹,生活在被大樹保護的環境,屹立在旁的老樹都是小樹值得依靠與學習的長者。透過這幅畫,愛的能量傳達給這個世界所有的觀眾,也在訴說山岸會生活者對於生命的傳承的使命。

展示在美里實顯地牆上大部分的畫作大多是竹內勝行 (Takeuchi)先生的作品,也是實顯地生活者之一。他的作品,像是照進幽林的曙光,為我帶來溫暖。回憶自己過去與森林為伍的日子,疲憊的身軀呼吸冷冽的空氣,巧遇到暖陽,那種難得時空因子交錯下,所浮現寧靜的幸福感。尤其有幸,能夠造訪位於一座邈無人跡的森林裡的ATORIA美術館,也是竹內先生創作的工作室與美術館,欣賞他一件件用生命對話的精彩作品。其中一幅大型畫作,樹幹看似漂浮在空中,空中延伸下來的主根緊貼著邊框,好像希望緊抓著某種連結關係,我不禁連想到,如果我就是這棵大樹的話,「我究竟想抓住些甚麼?」、「究竟生命的依靠是甚麼?」、「人類的根又是甚麼呢?」、「甚麼是我的根?」。畫中的樹,跨越語言隔閡告訴我,「自然是人類的根」,不可分割。彷彿像椿大神社千年神木,看盡滄桑,默默地守著大地眾生。竹內先生說:「藝術與心對話的最好方法:靜默」因為懂得傾聽心的聲音,生活本身,就是一件藝術品。

另一個體會是「無時不刻都在研鑽,計劃常趕不上變化。」那到底甚叫做研鑽?為什麼研鑽?人生的際遇,都是因緣際會而來,有高低起伏、生老病死,人的心緒無時不刻一直想趕上這些變化,並因應生命的種種變化而調整自己的腳步。研鑽似乎是一種很棒的工具,透由研鑽的基本態度,與自己深刻對話,可以因應出現在生命種種的即時變化。對我而言,「研鑽」的方法幫助自己有許多更深入內心的對話,再將這些對話釋放,和周圍的人產生激盪,然後再回歸內心,滋養自新而成長。我發現,人類的理解力和語言似乎是不同的運作方式。語言雖然很直接、很有力道,但是卻容易使我們淪於感受與習慣的奴役,失去觀察與思維的能力。舉例來說,為什麼對於同一件事,每個人的心態會不同?「為甚麼這個人要這麼作?他的肢體語言背後的用意?」這些都是很值得觀察與思維的項目。 剛好因為自己的日語能力有限,反而多了很多觀察與思維的機會,和自己內心有許多更深入的對話。

在實顯地的生活裡,很少人以專家自居,或是用學歷衡量一個人的價值與可能性。當你表達參與的意願,村人研鑽後覺得可行,便留個位置給你。在這個位置,跟著更熟練或有經驗的人從頭開始學。原本看似很專業的工作,熟練以後就得心應手了。不過,能不能投入,學得到東西,重點還是自己的心-「究竟想學甚麼?想不想學?」當你想參與、想學習,只要願意學,自然而然熟能生巧。在愛和館(食堂)切菜的經驗中,發現同種菜,入不同的菜色,切法不同、而且不論生手或是熟手,切菜的尺寸會先用木尺量過,試切幾塊後,確認範本的尺寸後,再快速地切。那幾天,我好像經歷一個新手快要成為熟手的進化過程,玉切愈激起我的挑戰欲,愈切愈開心,即使被洋蔥薰得到淚流滿面、切到手,止完血後還是繼續切的我,一點都不影響切菜的好心情。因此,我又多了個綽號叫「切、切、切小潔」(Kiru-kiru Pinchan)。實顯地生活者 「按部就班、 鉅細靡遺、將心比心、全心全意」等的生活特質,用心的程度,令自己汗顏、敬佩之餘,更想要效學。對原本性格上「不按牌理出牌、不求甚解、天馬行空、獨來獨往」的我好像找到生命的根,緊拉著自己朝著實顯地生活者特質方向改變。

和生活態度如此認真嚴謹的一群人工作,我不但不覺得有壓力,反而很歡喜。有一次在食堂善後,芙美子誇讚我說:「品潔你掃得好認真!!」我完全沒甚麼思考地回應:「因為您工作認真,所以我也工作認真。!!」這個情境使我思考,「為什麼我會有這樣的直覺反應呢?」或許是因為「我已經成為集體記憶的一員,每個角落都有自己的留影,所參與之處,也是自己的生活處所,所以當然會心肝甘情願地將自己的工作做到最好。」當我炒的筍乾大家都說好吃,他種的水果每個人都說甜,你插的花每個人都覺得很美,他們煮的咖啡大家說好喝,每件事都被讚嘆、被肯定。這裡的人們,似乎都有一顆美麗的心,只有肯定,很少否定。當每個人的所作所為就像一件每天都會被人讚賞的作品時,誰會想成為一位不用心創作的藝術家呢?而且透由每天的 「研鑽生活」, 幫助自己認真地挖掘自己內心深處最真實的想法,然後努力地付諸實踐,使我也渴望自己也能像這些可愛的家人們一樣,雕塑出一顆美麗的心。

生活在實顯地的人們,真心相待,關照彼此的需求,並為世界和平的共同目標一起努力工作,儼然是一個跨越血緣關係大家庭,「四海之內皆兄弟」的境界在實顯地實現。通常關係即使如同家人生活,還是難免會有因為情緒起伏、習慣所致不同的摩擦。但是村人們「反求諸己」與不斷「零位思考」的習慣,透過研鑽,將事情提出來討論,確定大家個別的意見,在當中尋求出共識,定案後,大家就往這個方向去作。雖然過程還會有翻案的可能,還是透過研鑽,再度凝聚共識,一起把臂前行。我想,實顯地運作既有效率、又有秩序的關鍵,並不單靠研鑽,背後真正的影響力還是來自每個人心中真心誠意的尊重與接納,給了大家幸福感源源不絕的能量。十天下來,感受到實顯地之間緊密的互助合作,人人辛勤工作造就豐衣足食的豐碩成果,自己的心靈生活也因為研鑽共學而充實。

為甚麼我會覺得生活在實顯地很幸福呢?在實顯地的行程,沒有身分、地位、外表的價值評斷,端看自己的能力選擇工作,太累就休息,沒有被強迫,只有尊重。每個人溫柔相待,彼此都希望為別人、為這個世界多做些甚麼。大家為了實現「創造人與人、人與自然幸福和諧的社會」這個大目標,每個人都很過得非常緊湊。甚至,外來者的我,都有種步調快到忘記呼吸的感覺,而他們竟然都不認為「自己很忙」。不,嚴格來說他們很不用「忙」這個字來形容緊湊的生活步調。經過北大路先生解釋,因為這些都是他們自己主動願意去做的事,所以不可能很忙,因為意旨「心亡的生活」,那時我才能意會到原來「一個人能不能獲得幸福,關鍵在於一個人的心亡不亡。」我也發現,只考慮到自己的幸福,是不可能美滿。個人的幸福唯有立基於整體的利益,才有可能得到幸福。幸福會,是眾人同心同願,努力「想要讓世界和平、想要人與自然和諧」共同協力的成果,也正是我想追求的生命。

我曾問加入山岸會十多年的市野育惠女士:「為什麼你會加入實顯地?」她說剛開始是「嫁雞隨雞」。加入後,發現這個熱鬧的大家庭,每天都很充實愈來愈覺得很好。尤其「用不到錢」這一點真的很棒,不必為了錢掛心,整個人都輕鬆了起來。聽完市野桑的見解,使我重新思考錢對於自己的意義。比對自己在台灣每天帶著錢在身上的便利生活,想到甚麼就去買甚麼,往往買了不是真正需要,久而久之派不上用場成了垃圾的物品,造成環境和心理的負擔。使我反省到,原來一個方便社會的背後,滿足的不只是自己的貪欲,另一方面更招惹來不必要的慾望與煩惱。為什麼用不到錢的實顯地生活,反而身心都非地富足?這其中的關鍵,或許是想要追求永續與富足的社會的人們,很值得觀察省思的重要課題。

有一次和先生聊到,沒擔任這次特講的關懷員時,覺得很可惜。他說,「不會呀,因為我們是一體的(We are one body)。」這句話,敲醒了我!來自台灣每個人雖然生命歷程迥異,卻因為「尋找幸福」的共同目標,在山岸會相聚。此時此刻,雖然無法親自到春日山實顯地陪伴5位特講生,但是和美里實顯地的村民一起工作,同桌用餐,互相添飯、分享每天的發生的趣事,用心作好每一件事,才過沒幾天,發現原本還很 陌生的村人,不知在何時已成為我在乎的家人了。當和村民共處的記憶融入己心,不管走到那裡,只要我還擁有心的記憶,就能感受到「我們都是一體的。」體驗何謂一體生活,使自己發現,原來「實顯地之間的距離 ,從來不會比心的距離遙遠。」這或許也是大家幫我安排到美里和大家一起生活的用意吧?

3) 希望&抱負 for the coming new year.

生命像是一連串地連鎖反應,想法一旦出現自然而然就實現的不可思議,是我在實顯地生活的最大收穫。你的心反應出你的生命。這個概念使我更相信生命可以不斷超越與啟發,生命種種的可能性不應該被自己的想法綑綁,使我更知道如何將對生命的理解,運用在實踐生命的方法。人要改變,光是有信心,有模仿的對象,有知識還不足以產生落實的動力。一個美好的社會,必須要有一群人,同心同願、彼此互助,彼此拉拔,使正向的力量不斷流動。 為什麼實顯地裡的人帶給我一種像家人的感受呢?未來,面對和我沒有血緣或關係的人,有沒有可能我也能夠這樣對待他們?儘管自己還是覺得很渺小,但是看見實顯地的人們,都那麼努力地想要滿足別人幸福快樂,那種美麗心意,似乎有傳達一點到我的心中,我也想成為令自己感動的感動。為了這份感動,我也會好好在我有限的生命中好好努力。