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豊里の文化展から


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学育部や豊里実顕地運営研で研鑽を続けてきた「子放れの門 月界への通路」がこの度撤去されることになり、文化部では当時太陽の家に子供を送り出していた人や、今太陽の家に子供を送り出している人達にその頃の様子や考えていたこと、今送り出して思っていること、最近一緒に研鑽していて思うことなど書いてもらいました。

豊里実顕地 文化部

1980年「太陽の家」完成

それまで空き鶏舎を改造した所で、又豊里実顕地発足時には、増え続ける子供たちのために、「磯鶏舎」と云って(磯さんは素人大工)真四角な建物だったり、村人の家の掘立長屋の端で乳児舎があったりの子供たちの住環境でした。

実顕地希望者の増加と産業の規模拡大に手が回らない状況でしたが、専門分野の研鑽は目には形には観えないものでしたが着々と進んでいました。

1980年「太陽の家」が完成し、百万羽入雛の3月3日を記念して、この日の朝から(今はもう無いが養鶏部10棟鶏舎の真中広場に3階建ての研鑽会場があり、1階は選卵場、2階はダンボール箱置き場、3階は3面ガラス張りで辺り一面が展望できる)新築したばかりの研鑽会場で太陽の家出発研が、各職場代表が参加して行われました。
そこに集まった人たちは「何と画期的な発想だ!!」と驚嘆し、直一層専門分業の価値を思ったようでした。

その日の昼寝起きの2時過ぎから、子供たちは今居る地点から新しい地『太陽の家』までを、2歳以上がヨチヨチと自力で歩いてくる姿が浮かびます。後から乳児をリヤカーに乗せて係さんがやって来ます。まるでヒヨコの入雛のように嬉々として、ヨタヨタ走って来て、『月界への通路』でハタと止まり、ためらいながら後ろ向きに慎重に降りていく子供や、足音高く駆け降りていく子供等と対応は様々です。
その子供たちも今やお父さんお母さんになって、自分達がそういう念の中で育ってきたとの自覚も無いようですが、確実に目には観えない根になっているのを感じます。

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沖永雅子

参画したとき、娘が3歳だったので、2年間毎日「宇宙ステーション」への送り迎えをしました。
「宇宙ステーション」と「月界への通路」だなんて、夢のある名前がついてるなあと思ったのも、もう26年も前のことなんですね。

それと誰が伝えてくれたのか、あの階段は99段あること、子どもがそこを通って無重力空間に送り出される、重力とは親を指していて、太陽の家は子ども達がその重力から解き放たれた空間だということ。
ヤマギシズムと出会って、それまで当たり前に思ってきたことが悉くひっくりかえされるという経験をしてきていましたが、この、親が重力というのも、かなり“びっくり”したことのひとつです。
親は子どもがちゃんと育つよう世話をする一番大事な人だと思っていたのに、それが子どもにとって重力だというのですから・・・

もうひとつの思い出は、ちょうどその頃始まった「全体調正」で、その99段の階段を美化したときのこと。一段一段掃除をしていて、ふと顔を上げると、前を見ても、後ろを見ても階段しか見えないのです。これは大人の私でもちょっとドキッとしました。
もちろんここを通る幼児にとって、自分のお母さんの姿も、太陽の家のお母さんや他の子どもの姿も見えない場所で、どうしたいかを自分で決めて、泣いても笑っても自分の足でどちらかに進むしかないというのを、毎日繰り返しながら育っているんだなというのをその時考えたことです。

清村りつ子

先だって、月界への通路の美化をしました。小鳥の糞や積もっていた細かい埃を取り除くとピカピカに輝く階段が現れ、それを囲むりっぱな木目のヒノキの板壁に本物を見て育って欲しいと願って建てたという大人たちの心意気が伝わってきました。この階段は何百回、何千回と走り抜けて行った子供達の、その笑い声や泣き声
を、じっと聞いてきたのでしょう。何だか愛おしく見えました。

そういえば、太陽さんも70人を超えていて、我が子は観音寺→内部川→美里に続く4ヵ所目の太陽の家にようやく慣れた頃。あの長ーい迷路のように見える階段を一人降りて行くのは何とも勇気が要ったことでしょう。
行き渋る我が子に手を替え品を替えして何とか行かせていましたが、泣いてどうしても私から離れない時に途方に暮れて下の係室に電話すると「○○お母さんが待っているからおいで、と伝えてください」とキッパリした返事。私自身が真底「放す」という所に立たないと、この子も変われない。と気付かされた場面でした。

最近子供に「壊す前に渡り仕舞いをしてきたら」と声をかけると「そんなに思い入れはないから」とあっさり断られました。月界への通路は小さかった我が子と泣いたり笑ったりした思い出のいっぱい詰まった、そして未熟ながらも親にしてもらった階段でした。ありがとう。

中井のり子

電話で迎えを知らせて、子離れの門で待っていると、なかなか上がってこなくて、トントンっと足音がすると、来たきたと、ほのぼのしたことが懐かしいです。
「月界の通路を壊すことになったよ」と我が家で話題にすると、「へぇー、あの階段、走って通るのがすきだったなぁ」と弘文。「わたしは、こわくて走って通ってたよ」「一段とばしで走ってったなぁ」。「わたしは、あの下のウンテイが好きだったけど、お庭の端っこにひとりでは行けなくて、なかなかやれなかっ」・・・・と、当時子ども達はそんなこと感じてたんですね。

師岡君江

当時、太陽の家はもっと下の場所に建っていて学育部だった私は子供達を受け入れ過ごしてきました。

階段の美化で、宇宙スティーションからも下の月界からも、まったくなにも聞こえなくなる無の神秘的な空間があり(ちょうど真ん中位)毎日子供達はそこを元気に降りてきていました。時には泣きじゃくりながらトボトボ降りてくる姿も・・・

数年後、娘を送り出す側になり母の愛情をたっぷり充電した小型ロッケットは月界へ。なかなか毎日はそうも行かず、こちらが、ちょっとでも急いでいたり他の事を考えていると気付くようで、甘えてみたり、グズッてみたり毎朝小さなドラマがありました。

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「天真爛漫」から

 ヤマギシの育児舎は1980年3月3日に出発した。1歳から5歳児までが、1日の大半をここで過ごす。全長100メーターのヤマギシ式鶏舎を背に、正面に大人たちの生活ぶりを見上げながら、学育の子供たちがつくる菜園や花園に囲まれて、思う存分自分を出しつくす。ここは子供たちにとって、一切の観念の世界から解き放たれた「無重力地帯」である。
 朝、子供たちは、母親と共に、「宇宙ステーション」にやってくる。ここから先は、親の立ち入らない子供だけの世界が開けており、親の愛情を自らの推進力とし、子型ロケットと化した子供たちは、99段の階段「月界への通路」を降りて「太陽の家」に到着する。この時すでに子供たちの頭には母親への思いはなく、
今日1日の楽しい夢だけが描かれている。ここには、前へ、前へと向かって伸びる子供本来の姿がある。こうして、やがては大木を支えるであろう目には見えぬ根が、着実に育まれてゆく。