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青木新門氏講演会


青木新門氏

青木新門氏

全国から約300名近い人達が集い、肌寒さも忘れるくらいの熱気漂う会場でした。
映画「おくりびと」が世に出るまでのいきさつや興味深い裏話など、絶妙の語り口調に引き込まれアッという間に前段が終わりました。

新門氏がまだ少年の時に幼い妹さんを火葬された話や、死んだ子をおぶった長崎被爆少年の写真には、胸がつぶれ声も出ない程悲痛な気持ちになりました。
戦後70年といわれる今も戦後と言い切れない火種は残されたまま、沢山の戦争犠牲者の命を託されて私達は生きていると改めて思いました。

死を受け入れて生きるとはどんな生き様なのか。日々生きた実質が死の瞬間にあらわれるのか。

講演が終わった時『死の瞬間を一生を通じての最大の極楽境にします』という実践の書の一節がフッと浮かんできました。

春日山実顕地 福田律子

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松本直次さんのブログより

昨夜、映画『おくりびと』誕生のきっかけになった『納棺夫日記』を書かれた青木新門さんの講演会が、三重のヤマギシの村・春日山実顕地であった。
◇青木さんの2時間におよぶユーモアあふれる語りかけに、笑い、うなずき、感嘆し、聴く人それぞれの心に染み入る、その連続の講演会だった。

 それは、単に話術だけがもたらすものでなく、青木さんが納棺夫として歩んできた人生の中での実体験を通して、青木さん自身が考え、感得した内容だったからだと思う。

◇前半は、映画『おくりびと』が出来るまでの裏話というか、主演俳優の本木雅弘の熱意で映画製作になった経緯。しかし、送られてきた脚本をみて、自分の書いた『納棺夫日記』を原作として明記することを断った理由とこだわりの真意など、青木さんだから語れるし、講演会だから聴ける興味深い内容だった。

◇そして、「ここからが本題です。」と話された後半は、納棺夫をしなからの自他ともにあった職業的偏見からくる、妻や叔父との確執と葛藤の話。

 それからの脱出は、偶然にも昔の恋人の父親の納棺のとき、彼女の瞳の奥に感じた、その時の自分を丸ごと受け入れてくれている温かい輝く光だったこと。

 そして、危篤状態と聞き仕方なく見舞いに行ったときの、叔父の臨終前の笑顔と、言葉にならない「ありがとう」の呟きを感じたとき、一気にそれまでの確執が霧散してしまった体験談。

◇人はみな、死を受け入れた瞬間、あるいは受け入れの可否でなく、限りなく「生と死」が近づいたときには、すべての存在が愛おしく輝いて見え、すべての人とものの存在に感謝の心がわき上がり、それが優しい笑顔となって表れる事例を感動的に語っていた。

 そして、その臨終の笑顔に接するかどうかが、きわめて大切であることを、神戸の酒鬼薔薇聖斗と名乗って行われた連続児童殺傷事件を起こした少年の供述調書と、同じ年代でありながら、家族みんなで祖父の臨終を看取った少年の作文とを対比して、分かりやすく語ってくれた。

 それは、無意識の中にある「生と死」を分離した現代人の思考に対する歪みへの警告にも繋がるものだった。

◇さらに、青木さんが8才の時に体験した旧満州での弟と妹の死と、弟の亡骸を自らの手で、くすぶる石炭の上に置いてきたという臨場感あふれる体験談を聞き、それが青木さんの原風景となり、納棺夫として死に向き合った数々の体験が触発され、さらに原風景を形成して、その繋がりの中で結実した内容が、講演会のタイトルでもある、青木さんのいう『命のバトンタッチ』の真意なのだと思った。

 僕らは、研鑽学校Ⅲの中で、自分の原風景を探り、隣人の原風景を聴き、そこから繋がる現在の自分たちの心根を確認する研鑽(僕はそう受け止めている)をしている。そんなことをも彷彿させる青木さんの語りかけだったように思う。

◇最後に、青木さんが昨年刊行した『それからの納棺夫日記』でも、講演会で語られた内容や青木さんの思いが文字を介して語られているので、一読されることをお薦めしたいと思う。

青木新門氏のブログ【新門日記】より

href=”http://www7b.biglobe.ne.jp/~amitaabha/

3月6日(金) 晴れ

富山を7:09分発の「しらさぎ」で米原経由で草津駅に着いたのは10:22分であった。駅の改札口でヤマギシ会の北大路さんと佐川さんに迎えられ、三重県伊賀市川東のヤマギシズム春日山実顕地へ向かった。
小高い丘陵の台地にある春日山の実顕地には、管理棟や集会場、住居棟、集会所、共同浴場、食堂、理容室、ドライクリーニング場、冠婚葬祭の衣装や小物などの利用施設、老人ホーム、果物や野菜の選果場、売店、山岸巳代蔵翁の墓もある共同廟所(公人の丘)などを取り囲むように、果樹園や野菜のビニールハウスや養豚舎や養鶏舎や牛舎が車で何キロも走らなければならないほどの広大な土地に立ち並んでいた。バイオ発電の建設も進行中であった。
こうしたヤマギシズム社会実顕地が全国に26か所もあり、共同生活を営んでいるという。またブラジルやスイス、韓国、オーストラリアなど海外にも六ヶ所の実顕地があるという。わが国では農事組合法人として、その農産物加工品の売り上げ高は同業組合の中ではトップクラスだという。
つくづく、「百聞は一見にしかず」という言葉を実感した。現場を訪れるまで私は、少年の日に村の鎮守の森を遠くから眺めて何か恐ろしい妖怪でも住んでいるようなイメージを抱いていたのと似たような印象でヤマギシ会を想像していた。しかし実際に現場を訪れてそのイメージは一瞬のうちに消滅した。
特に私が注目したのは、「幸福会ヤマギシズム実顕地」という名称にある「顕」という字であった。この「顕」という字に気づいた瞬間、仏教でいう「証」という文字が浮かんだ。道元は「修証一如」を重視した。修行には「証」が伴わなければ意味がないということである。親鸞は「行証久しく廃れ」という言葉を残している。これも「行」に「証」が伴うことの大事をいっている。私は、ヤマギシ会が用いている「顕」という字が仏教がいう
「証」と同じ意味するように思うのだった。
また、宮沢賢治が「農民芸術概論綱要」で「世界がせんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と高らかに宣言し、イーハートブ(理想郷)を夢みたが、賢治の場合宣言だけで頓挫し、「顕」も「証」もみることはなかった。
ヤマギシズムの驚くべきことは、所有の概念を全否定し、「無所有一体」の生活を信条として、その理想郷を実現すべく実践していることである。少なくともその具体的成果、即ち「顕現」がみられることである。その「顕」は、例えば晴れた日が急に曇ったりするように、放っておくと顕が隠れてしまう。そんな顕を持続するために「研鑚」を繰り返すことを取り入れている。見事だと思った。そして「目的が崇高であればあるほど、その手段
も崇高でなければならない。なぜならば手段の集大成が目的であるのだから」と言ったマハトマ・ガンジーの言葉を思い出していた。

講演は、仕事を終えての7時からであった。津市豊里の実顕地をはじめ、各地からも参加があって、300席の会場は満席であった。2時間の間みんな真剣に耳を傾ておられ、話がストレートに伝わっていくのがわかった。虚心に受け入れる下地があるのである。講演終了後の反応も他に見られないほどよかった。

3月7日(土) 三重県 晴れ 富山 曇り

昨日、1月のインドの旅をご一緒した牧野出版の佐久間憲一氏がヤマギシ会の取材に来ておられたのに驚いた。偶然であった。昨夜はヤマギシ会の老人ホームの空き部屋に泊めてもらい、佐久間氏と共に北大路さんの車で津市の豊里実顕地へ向かった。春日山の実顕地と同様な機能を備えた立派な建物が並んでいて、結婚式場や葬儀会館まで備わっていた。その規模は春日山より大きかった。廃業したゴルフ場を買収して果樹園やイチゴ栽培など
も行っていて、市街地にはパチンコ屋を改装したヤマギシ会の全生産物を扱う直売店もあった。それらを見学して、佐久間氏と別れ、北大路さんが運転する車で今日の講演会場である鈴鹿市まで送ってもらった。昨日滋賀県草津の迎えから今日の鈴鹿市への送りまでの2日間、誠心誠意のおもてなしを受けた。そしてその間北大路さんといろいろ話し合ったことは 今回の旅をとても実り豊かなものにしてた。感謝の気持ちと名残り惜しい気持ち
で、鈴鹿市文化会館の前で別れた。
今日の講演会の主催者は鈴鹿地区介護支援専門委員協会であった。チラシには、鈴鹿市や鈴鹿市医師会などの後援などが記されてあったが、名前を貸しただけで働きかけがなかったのであろう。大きなホールには空席が多く、昨日のような熱気は感じられなかった。しかし、講演終了後の反応は悪くなかった。4時過ぎに会場を後にして近鉄白子駅まで送ってもらい名古屋へ向かった。名古屋駅できし麺を食べ、しらさぎで富山駅に着いたのは9時半だった。

佐川清和さんのブログより

3月6日(金)夜七時から『納棺夫日記』の著者、青木新門さんの講演が自分の住む実顕地内で実現した! 今日の青木新門さん自身のブログにもそのことがくわしく書かれている。
そのなかにマハトマ・ガンジーの言葉が引用されていた。

「目的が崇高であればあるほど、その手段も崇高でなければならない。なぜならば手段の集大成が目的であるのだから」

そうなのだ。目的と手段が「一つ」の実顕でもあるのだ! それには自分自身の生き様がいっとう最初に問われてこざるを得ない。しかもそのことを、晴れの日も雨の日もあるふだんの日々のなかで寒夜に滝に打たれるような荒修行を通してでなく、和気藹々のうちにどうやって成し遂げることができるか? ここにおのずと私たちの実顕地生活の面白味、やり甲斐・生き甲斐・存在価値が見出されてくる。

以前にも書きとめたことがあるが、2000年前後自分も自分が属する組織体も混迷状態に陥っていた時に、ふと手にした一冊の文庫本『納棺夫日記』。そのなかの納棺の現場で出遇った元「恋人の瞳」の一節。自分の琴線に触れた一瞬だった。その後幾度となくそのシーンが思い浮かんでは癒やされたことか!

ついにはその瞳の奥にある「何か」と自分自身のリアルな一つの体験が重なり合い溶け合った。その時全体総てを見渡せる明るい世界が見えてきたのだった。ヤマギシズム研鑚学校Ⅲの課程が誕生した瞬間だった。