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タックさん(香港)実顕地滞在記


この夏、研鑽学校Ⅲに香港から参加したタックさんは、研鑽学校修了後、加賀実顕地や榛名実顕地を訪問した。タックさんが研鑽学校や実顕地の様子をレポートしてくれているので紹介します。

(翻訳 平尾和子)

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研鑽学校3を終えて

7月26日~8月9日までの研学Ⅲ終了から2週間が過ぎました。日々の暮らしに気が行っているので、24人の参加者と生活は遠いことのようになってきました。何が残っているのかな?思い出だと思います。
研学Ⅲでは私達の”原風景”や”心に触れるもの”を思い起こすことに随分時間を費やしました。過去の情景を思い起こす努力をみんなで一緒にやって、いっぱいの愛と温かさが 私たちみんなの中に生まれました。参加者全員の郷愁。
もうすっかりわきに押しやっていた昔の幼いころの思い出が私の心に蘇りました。
それは、私が4歳になる前にかわいがってくれた、父のお兄さんである私のおじさんの顔が、私の原風景に登場してきたのでした。幼い私に示してくれたおじさんの率直な愛情が戻ってきました。おじさんの思い出が鮮やかに蘇りました。
彼は伝統的な楽器をいくつか演奏しました。漢方医でした。数字を教えてくれて、幼稚園へ連れて行ってくれました。おじさんは私のヒーローでしたが、文化革命(60年’代から70年’代までの10年間続きました)の間中国に帰って行ってからは忘れていました。中国で亡くなる前、中国が外に向けて再び門戸を開いたので、12歳の時一度だけ会いました。
おじさんを思い出すことが、今私ができるたった一つの感謝です。
古い思い出がまだ消え去らないでいる間にも、2週間の短期集中的研鑽学校の新しい思い出も集まってきました。
作業を教えてくれ、研鑽作業を楽しくしてくれた何人かの新しく知り合うことができた実顕地の人たち。この‘先生達’は一人一人違うオーラを持っていて、違うエネルギーを発散させていました。そのうちの二人は70代と80代でした.作業のとき若々しさと、やる気を見せてくれました。又、何人かは、動物の世話をするとき、感銘深い優しさを見せてくれました。インフルエンザみたいに、そんなオーラに感染したようでした。
その上、研鑽会の間、3つの物語が繰り返し語られました、「インドの少年」「みかんの小娘」と「野生の鮭」は心に違った後味を残しました。
インドの少年の話では、彼が一番心をかけている者に、最高のものをあげたことで、私は温かさを感じました。
みかんの小娘が、もうこれが多分最後に見ることになる弟たちにさよならを言ったとき、私は悲しくなりました。
鮭が上流へ駆け登った時は、私の中に荒々しい鮭がいるのを感じました。
これらの物語それぞれが語られたとき、感情がどっと押し寄せてきました。瞬間のことでしたし、自然でした。
時々、世話係が、何が自分に触れているか気づくための、もっと心の奥深く見るように、押し続けて来たときは、きつかったです。どうやって、どこを見るのか、困ってしまいました。‘いわゆる’答えがないのは知っていますが、私がこれから一生ずっと自分で感じる練習をすることなのです。
この経験と思い出が私をどこへ導いていくのかしら? まったくわかりません。
研学Ⅲのテーマの一つのように、”万象 悉く流れ 移りゆく”
だから、流れましょう。

鮭がヤマギシの豚に出会うとき

研学Ⅲの鮭が、こんなに遠く迄楽しい旅をしてきました。2015年8月9日に研鑽学校を出発してから、加賀実顕地で8日間、榛名実顕地で9日間、そして岡部実顕地で2日間の旅になりました。
豊富な食糧供給で私の脂肪はほとんど二倍。好奇心は旅の進展と共に 大きくなってきました。より混乱して終わったり、仰天したり。
沢山の豚に出会いました。年齢はいろいろ、中国と日本の血統のかあさん豚、ヨーロッパ血統の父さん豚。
産まれたばかりの仔豚に初めて出会ったのは、研鑽作業の時の豊里実顕地でした。優しい女性お二人、きよさんと明美さんに『入るよ』と言うのを教わりました。お母さん豚のなわ張りに入るたびに、お母さんの目を見てご挨拶をしました。お返事に、かあさん豚はただ耳をパタパタさせたり、目配せして『いいよ』といったりしました。可愛いおちびさん達をだっこすると私の心がとろけました。
加賀実顕地へ向かったら、また豚が居ました。新村さんの庇護のもと、2-3か月の若い豚さんが住んでいました。毎朝7:30、私はゆみこさんについて若い豚さんに会いました。幸運な豚たちは、スタジオ型の二つに分かれた空間に住んでいました。
固いコンクリートの食堂と、やわらかい寝床の遊び場兼寝室。私たちがやることはおもにスコップのような道具で食堂をきれいにすることと、おが粉2杯をコンクリートに広げて床を乾かすことそれだけ。ゆみこさんは「仕事をやりきることは気にしないで。研鑽で働くのを経験するためにここにいるんだからね」というのを私にしょっちゅう思い出させてくれました。彼女は優雅にしゃがんで、豚さんに手を嗅がせてやって、「可愛いねえ、豚と一体と感じてね。」”ううーむ 先ず鼻をきれいにしてからね” おしっこした床をつついた鼻を見て冗談半分で私が返事をしました。
榛名実顕地に着いて気づいたのですが、鶏だけでなく豚もたくさんいました。このでっかい豚は岡部実顕地から来ています。和子さんが初めて連れて行ってくれたとき、たぶん泥んこレスリングをやっていたのか、豚たちが泥んこのマスクをかぶったようでびっくりしました。私はずっと実顕地メンバーはいつも真っ白で清潔な環境にこだわっているという印象を持っていました。だから、いったいどうゆうことこれは?。
EMの活性液を作りながら和子さんが「湿った環境で暮らすのが豚の健康にいいのよ。
床が乾いたら水をかけるの。おまけにEM活性液が、健康な微生物が豚の住んでいる所にいるようにしてるのよ」と説明してくれました。
泥んこの様子は人間の目には心地よく見えないけど、ほんとに豚の部屋は嫌な臭いがしませんでした。素早い動きも豚が元気だと証明していました。
岡部実顕地に着いてから、私は意図的に豚舎へ行きたいと言いました。仁藤さんが私の願いを親切に受け入れてくれて、その辺を案内してくれました。最初に赤ちゃん豚の部屋、それから若い豚の部屋、父さん豚の部屋、、みんなさっぱりした環境で暮らしていました。体重の満たない赤ちゃん豚は健康な餌を無制限にもらう特別な飼い方をしてもらっていました。現時点の母さん豚は、チャイナージャパンの4代目で、父さん豚はヨーロッパの血をひいています。
赤ちゃん豚が2-3か月になったら、みんな榛名に送られるんだ、と仁藤さんがいいました。何で榛名では豚が湿った深い泥の中で住んでいるのかを聞かずにはいられませんでした。湿った、泥んこの状態が実際豚の健康にいいのだと説明してくれました。豚は乾燥した場所ではすぐに肺炎にかかります。
仁藤さんは実顕地に来る前は豚をやってなかったです。22年前に実顕地に来る前は、Sonyでデザイナーをやっていました。今でも製品デザインが好きなのです。何で外の大きな世界で暮らすのを諦めたのかと聞いたら、軽く頭をかしげて、「実顕地の世界は外より大きいよ」と言いました。仁藤さんは目を細めて、自分の心臓を指さして(誰かが仁藤さんは侍に見えると言っていました)「ここで僕は人と共に繁栄したいんだよ」と言いました。そうしたい人がいれば、心に境目はないんです。
PS 今夜の夕食は豚肉丼です。榛名の豚肉です。私がお代わりをしたとき、和子さん  が「ほらね、泥んこ顔の豚は美味しいでしょ!」と言いました。

2015.8.28 榛名実顕地にて  TakyinHo

榛名の卵が心を飼い慣らす

2015年8月18日お昼の12:45、安中榛名駅の改札口で迎えの後藤さんに会いました.車の旅はただラジオの音が聞こえるだけの静かなものでした。私は道なりの景色を見ることにしました。車が進んで、家がだんだん少なくなり、緑の重なる景色になってきました。ぐるぐる回ったり曲がったりしているので緩やかに昇っているのがわかりました。鹿や熊,猿でも出るのかなと思っているうちに、田舎道の左側にヤマギシズム実顕地の看板が突然現れました。

車が一階建ての建物の前に止まったのは、13:25頃でした。車から外に出ると、曇り空と山並みが目の前にありました。予想だにしなかったのですが、山の上で、海のにおいがしました。和子さんが出迎えてくれて、きれいに掃除された部屋に連れて行ってくれました。「すぐに窓閉めさせてね、そうしないと部屋じゅう臭いがするから。」手早く窓を閉めながら「今鶏用の魚粉作っているから」と言いました。私の部屋の窓の向かいの高い煙突から白い煙が出ているのに気付きました。

榛名実顕地には23人住んでいます。豚の飼育数を増やしてはいるのですが、卵の生産が20年前に榛名実顕地が設立されて以来ずっと続いている大事な産業です。現在鶏舎が8棟あり、8000羽の雌鶏と700羽の雄鶏、そして4800羽の若鶏がいます。(雛はよその孵卵場から来ます)

研鑽で作業をする意味を垣間見るため、選卵の作業をしました。裕子さんが卵をパックする作業の間ずっと私の世話係の役をしてくれました。7時から30分の出発研で私の一日が始まります。大体10人ぐらいが出席しています。自由な率直な雰囲気が研鑽会にあって、参加するのも発言するのもプレッシャーはありません。

8時から、卵生産ラインに入ります。長いラインの中で、私が初日にやったのは、破卵を選んで抜くのと、箱に詰めるのを習ったことです。選卵機からあまりにもすごい大きな音が鳴り続いていたので、卵の世界に避難するしかなかったです。
L7個、M5個、S3個を繰り返し箱づめすること。午前の作業は、途中20分の休憩を挟んで、11時ごろ終わります。”卵を詰める作業が、高校の夏休みにやった電気時計の工場の作業を思い出させた”と、和子さんと裕子さんと私でやる夜の30分研鑽会で出しました。”まるでチャーリー.チャップリンのモダーンタイムズの映画みたい。拘束されている時間中、単純作業をやり続ける自分を想像した”と言いました。

裕子さんが選卵で10年以上やり続けていると知ってびっくりしました。榛名実顕地での短期滞在で”終わり”があるのがわかっていたので、私は榛名にいる間選卵で卵を詰める作業を続けるという実験をやることにしました。

二日目は卵のパックを大きな箱に詰める作業でした。午前中いっぱいかかって、7人の卵チームは必要なパック詰めを終えることができました。午後も行き続けました.選卵機が動いてなかったので、価格ラベル貼りと出荷日のスタンプ押しに集中できました。

三日目、藤本さんとの卵パックを大きな箱に詰める作業になれて来たなと思っていたら、この二人作業にもう一人、フライング・ホース(彼の日本語の名前がこういう意味なのです、翔馬)が入ってくることになりました。フライングホースはその飛ぶような(フライング)手の動きで、ものすごく速くやるので、私は藤本さんと彼の間を行ったり来たりして、卵パックを大きな箱に詰めました。耳栓をしていたにもかかわらず、選卵器の音があまりにも大きくて、一瞬ですがめまいがしました。
そこで自分に聞いてみました「何を急いでるの?」突然、三人はそれぞれが違う、違う動きをしているんだと気付くことができました。ふさわしいリズムを見つけるのが大事なのです。

日が経つにつれて、毎日何かに集中することをやってみました。毎朝 フライングホースと陽さんの手がどんなに素早く動くか見ながら;
価格ラベルをどうすればもっと早く貼れるかを発見しながら; 裕子さんから藤本さんへ渡されるメモの読み方を覚えながら;
一個一個の卵の色と形の違いを味わいながら; 変わった様子の卵を見つけたらいったい雌鶏に何があったのかなと想像しながら;
村ネットに何と書こうかと頭を働かせながら 何パック詰めたか数えることにしました。

もうチャーリチャップリンのモダーンタイムズではありません…疎外ではなく、ほかの人を、周りを、そして自分自身を感じられるようにと自分を慣らしていく試みなのです。

2015.8.30 榛名実顕地にて