ページを印刷 ページを印刷

行ってらっしゃい!!福子さん


弔辞

1-img575b 福子さん、とうとう行っちゃいましたね。
ここ数年は、「早くお呼びが来ないかなー。」と何回もぼやかれましたが、まあ、それが叶ったと言うと事でもあり、94歳と言う高齢でもある訳ですし、徳重さんの91歳を3年以上長生きできた訳で、私等にとっては、さびしいですが目が見えない、耳も聴こえにくい福子さんにとったら、これが丁度良い幕引きだったかもしれませんね。
 思い起こせば徳重さん福子さんと那須の地で、久しぶりに再会出来たのは10年前になりますね。
始めの2年間は、多摩供給所からの通いで、徳重さんについてブドウを伝えて貰いました。
その内、私が面倒を見ていた私のお袋が亡くなったので那須配置にさせて貰い、本格的にブドウに携われる様になりました。
それから3年で徳重さんは予告した通りに亡くなってしまいました。
徳重さんの亡くなる前から那須実顕地の村替えの話が起こり、いざ移動となった時、福子さんに「私達と一緒に移るかい」と聞いたら、「一緒に行きたい。」と言ってくれたので、豊里に3人で移って来ました。移るに当たってブドウの樹は那須に置いて来ざるを得ないかと思いましたが「書き残したものも大切だけど現物(ブドウの樹)が大事」と福子さんに言って貰い、私達も、それで目が覚め、ブドウの樹と共に移って来ました。お陰さまで、その時移動した樹は一本も枯れる事無く根付きました。
福子さんは3年前から、その前からディサービスを含めショートスティも利用する様になり、その時から変化が見られる様になりました。
と言うのは、利用している「ベタニア」でのスタッフの名前も覚えたいと思ったからでしょう。
それまで、このまま認知症が進んでしまうのかと思えた日常が、かつての福子さんを思い出させる頭の働きに戻って来ました。
ディサービスの思わぬ効用に「人間には、幾つになっても刺激(新しい情報・新しい環境)が必要な事を知りました。
 福子さんは大地主の家に生まれた、お嬢様育ちだから我が儘な所が残っており、自分の境遇をぼやくのは目が見えなくなってから顕著で、それまで色々な人が訪ねて来てくれていたのが、ぼやくので段々と来てくれる人が少なくなりました。
何度伝えても直らなかったぼやきが、丁度その頃を境に減って来た様に思えています。
一ヶ月程前、朝立ち寄った晶子が「今からブドウ畑行って来るね。」と言ったら「頼むね。」と言ってくれたそうです。
福子さんにとったら最後まで大切なものだったのですね。
ここ一~二年でも、福子さんには周りの色々な人の応援がありました。
安土さんが使っていたという、音声で本の読み聞かせをしてくれる機器を用意してくれた介護部の人達、食事を食べさせに通ってくれた里子さん、本の読み聞かせをしてくれた初美さんや美恵さん等、福子さんは恵まれていました。
皆さんにお礼を言います。「永い間、有難うございました。」
福子さんは私にとってもう一人のお袋でした。
会いに行くと喜んでくれて、だからまた行きたくなる。
亡くなる前日も晶子が持って行ったブドウを2粒食べてくれたそうです。
人間誰しも、いつかは死ぬのですね。
だから、生きている間、いかに本当の生き方をするか、それしかないと改めて思いました。
徳重さんが何回も言ってくれた、「われ、ひとと共に繁栄せん」は、人だけじゃないんだよ、ひ(陽)とと(土)だからね!と宇宙自然界からの見方を言ってくれました。
それと「キメを持たないで!」が頭の中から離れません。
 今私達のブドウ畑には沢山の虫(小動物)がいますし鶏達もいます。
農薬を使っていないので安心して住めるのかも知れませんが、そういう動物達も全体としてバランスを保っていてくれて成り立っています。
こんな未熟な私達ですが、今年も豊かな稔りを頂きました。
宇宙自然界からの贈り物ですね。
これからは、大空から徳重さんと共に笑って見ていて下さいね。
福子さん ありがとうね。 行ってらっしゃい!!

2015年 8月31日 豊里実顕地 五十嵐博

福子さん、こんなに早くお見送りするとは思いもよりませんでした。
一昨日、車椅子に乗せてもらって、朝食でわりと大きな声を出しておられました。
朝の介護の打ち合わせでも、福子さんの様子を出し合って今どんな風にやったらいいかと話し合っていたところです。
振り返ってみれば、福子さんと初めて会ったのは私がまだ子供のころ、昭和33年の夏でした。確か福子さんはまだ30代後半ではなかったでしょうか。
もう、半世紀以上も前になりますね。
その頃、参画の呼びかけに応えて全国各地から10代20代の青年、主に20代~40代の人たちが家族と共に春日山と四日市に参集してきました。春日山の建設が始まったばかりの頃です。その頃の春日山は赤松の林と赤土でした。
10月入雛を目前に控え、今から住いも作っていく前段階でした。
地元のお寺を借りたり、川東・川西の有志の方の空いている家、家の離れを借りての生活でした。その時、福子さん一家と私たち家族は同じ家でしたね。そこから、子供たちは学校に通い、大人たちは毎日春日山へ建設に通いました。
食事とお風呂は川西に借りた家まで通って、賑やかでしたね。
その年の12月下旬、仮宿舎も出来たようで、四日市にいた人たちも春日山に移り、地元にいた人たちも山の方に引越し、皆で一緒に生活出来るようになりました。
春日山にその第一歩を踏み出し、子供の目にも、革命をやっていこうという若いエネルギーが満ち溢れていました。
春日山で福子さんは生活経理事務を担当してやっておられました。事務所は窓口的役割もあり、来客の接待等、持ち味を発揮されていました。
誰からも福ちゃん福ちゃんと慕われ、肚のすわったドーンとした村のお母さんという感じでした。皆、特に女の人たちは何かあったら相談に行っていたようです。
そういう人柄もあってか、人のお世話をする役割もされていました。
その後は、もともと目が弱く事務仕事も出来づらくなり、幼児舎で主に赤ちゃんの世話をしてくれました。
昨夜の偲ぶ会では、その当時若いお母さんたちが遅くまで仕事をしていて、子供たちを見て貰って安心してやれた、有難かった!と聞かせて下さいました。
晩年、那須から豊里に来られて、ここ数年は介護部で御一緒させて貰いました。
かかわらせて貰った人たちに福子さんの印象を聞くと
・福子節をたくさん聞かせてもらった
・思っていることをハッキリ言う人、かわいかった
・おもしろい人、思っていることを言うので
・淋しがり屋だった    
等々いろいろありました。
目が不自由な福子さんに何とか楽しんでもらおうと、図書館に行ってお話しを聞かせてくれるものを借りてきた人
まだ元気な時に一緒に部屋に泊まってくれた人
毎週日曜日に来て、本の読み聞かせをやってくれた人
毎日のように夕食の時間、食事を食べさせに来てくれた人、等々
思えば豊里に来てからも、いろんな人たちが周りにいてくれましたね。

福子さん、先人の方たちと一緒に、私たちを見守っていて下さい。
どうぞ、安らかにお休み下さい。
行ってらっしゃい

2015年 8月31日 岡田稔子