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実顕地が伸展するには 【4】


私の中のヤマギシズム

実顕地が伸展するには 【4】

 こうした状況でヤマギシズム創始者亡き後が引き継がれた。その後も数カ所の実顕地が新たに発足しているが、生活は経済的にはかなり厳しい状態が続いたようだ。
そこで、地域の太陽的存在となってこの運動を効果的に進めていくには、物も豊満で村人みんな仲良く楽しく耀いてこそ真価が最大に発揮されるとして、小人数でなく一つの村を形成するような大型のものを造ろうという案が持ち上がった。そして山岸没後8年後の4月の代表者会議で一単位(50戸以上)の実顕地実現の推進を決定し、6月豊里実顕地起工式、8月宿舎棟上げ、9月鶏舎棟上げと進み10家族から出発して、やがて各地に発足した実顕地の親鶏的存在となっていく。
 1970年代に入って「生きていたZ革命」等々マスコミが度々取り上げるようになり、学生など一般からの参画者も見られるようになってきた。そして幸福学園運動や有精卵、六川の低農薬ミカン等から活用者グループの拡大につながり、実顕地生産物の供給活動が本格的になる。厳しい生活を強いられてきた売り上げの低迷も次第に上向きになってきていたが、このグループづくりによって前年比の6倍の売り上げを見る発展ぶりとなった。

 この波に乗って経済的にはひとまず安定の見通しがつき、これまで造り上げてきたものを仕組み的に見直して、イズム社会の仕組みに沿った調正整備に取り掛かる。これまでは中調参画者、実顕地参画者と別々になっていて主従のような対等でない空気があったが、参画受付は実顕地本庁一本として、実際に横一列の一つで調正し易いようにし、それまで便宜的に試験場に設けられていた運輸や建設等は実顕地に移管、人事配置も本来の在り方に沿って大勢の移動が行われた。
 その後、山岸亡き後の試験場を背負っていく力がないと見たか、時期尚早と考えたのか、或いは実顕地の内面充実や一体化を進めるためか、試験場を一旦廃止し、春日山実顕地として再出発している。これによって組織的には一本化され、本来の独立した三大機構の形からは離れるが、当時気持ちだけでそれぞれに各地に立ち上げてきた実顕地の初期の混沌とした集まりを仕組みに乗せ、個々の自立と全実顕地一つなどの形を調えていくための一時的便法を採ったものではないかと思われる。
 それまでは研鑽する機会も少なく、何か事が起きた時に研鑽していたイズム理念を、日常的に意識して取り組み高めて、毎日の生活そのものが目標とする真に自由で楽しい研鑽生活、イズム生活としていけるように定例の「技術研」や「イズム生活研」などの基本研や毎日の朝夕の出発研、整理研も行われるようになり、またヤマギシズム経営センスを身に付けて自立していくための「実顕地経営研」や全人幸福社会の成り立ちを基にした、幸福の書としても見ることのできる「山岸会養鶏法」やヤマギシズムで組み立てられ、仕事の目的や作業の在り方、それをする人の態度や心境の在り方まで細微にわたって示されてある「ヤマギシズム社会式養鶏法」を基にした2週間の「養鶏法研鑽会」や「生活法研鑽会」を毎月開催するなど、ヤマギシズム実顕地が文字通りヤマギシズムの顕れる地と成すべく様々に具現方法を考え出して実行している。

 この間、学園運動や実顕地生産物を介してヤマギシ会員は増え続け、研鑽学校は参画するための通過儀礼のように取り違えられるほど、研学修了後は参画を提案するのが当たり前のようになっていった。実顕地構成員が増えると生産物が増産され、会活動も活発になって子供のヤマギシズム学園送りも急増するといった具合に、その規模は雪ダルマ式に年を重ねるごとに大きくなっていった。

 私が参画した頃は、学園運動や供給所が発足してこれから動き出そうとしていた時期で、豊里実顕地の構成員は70人ほどで未だ余り財力もなく、菜園は鍬で耕すのどかな空気が流れていた。当初は特に役についている人以外は定例の仲良し研があるくらいだったが、程なく朝の出発研と一日やってみての整理研、夜は月2回の定例の各種基本研が行われるようになった。
 ヤマギシズムに共鳴し、みんなが幸せに暮らせる社会をつくろうと寄った私達が、その目的のために先ず取り掛かるテーマとして、無我執「持たない・放す」が取り上げられた。一体の本当の仲良い生活にしていくためには、それを妨げている自分の囲いを外し、自らを解放して一体の真理の世界に融けこんでいくことから始まる。
 これまでは物にしても考えにしても、これは自分のものこれは誰々のものとしてきたものの見方考え方を見直して、もともと誰のものでもないものを、誰のものでもないと観える理に副った観念に切り替え、事実が在りのままに見える目に取り換えて、事実から始まり理に適った考えを導き出して晴れ晴れの連続生活にしていこうというものである。

 当時村を挙げてこの観念の見直しのために様々なことを実践し研鑽してきた。ここは自分の居場所として固持する観念を放す取り組みとしての部屋替えや、自分のものとしているものを実際に放してみることで持たない観念を体得する実践と研鑽が繰り広げられた。
 タンス・下駄箱・水屋などの家具に始まり、衣類・本・ラジオ・レコードプレーヤー等々あらゆるものに及んで各自で思い思いに取り組み、研鑽も進んで、放した物は村の「日用品展示場」をつくって必要とする人が要るものを自由に活かす仕組みも生まれていった。こうした実践とイズム理念の研鑽の繰り返しを経て次第に観念が切り替わっていく。
 1979年 元日の寒い朝、建設途中の未だ外壁も無い屋根が掛かったばかりの豊里講堂を会場にした新年の集いの檀上に「全人幸福 真実の世界」のテーマが掲げられた。未だかつて無い手探りの社会づくりに取り組んできて初めて上ってきた「真実の世界」のテーマに、とうとうここまで来た、真実の世界を語るまでになったかと感慨深い思いが湧いてきたことだった。

 この頃までは産業面も拡大面でも緩やかな順調な伸び方をしていて、研鑽・実践でイズム理念が醸成体得されていく期間的余裕もあり、そんな環境の下で着々と進められてきたヤマギシズム学園や実顕地生産物の供給拡大、そして施設の拡充などが更なる拡大の基盤となり、時代の流れも同調してその後学園生や新参画者が激増していく。そして全国都道府県や世界各国に1カ所以上の新実顕地発足を目標に掲げ、新しい供給所、新実顕地を次々に発足させて人を送り出すようになっていった。
 ヤマギシズムに依る実顕地づくりが軌道に乗って、年を経る毎に次第に拡大発展していく様は「全人幸福」の目的の正しさとヤマギシズム理念の確かさの現れとして当然の結果と無意識の中に思い込んでやってきたが、その順調さ、そうなって当然とするところに落とし穴があったようだ。

 物事を成すには適切さが必要。実顕地が伸展しだした頃、新築された愛和館に「伸展合適」の額が掲げられた。日頃の行為行動を理に適ったものにして伸展していこうということだろうか。ヤマギシズムを体得し実践できた分だけ実顕地が本物になっていくとして取り組んできたが、新参画者数の方が元の何倍にも多くなってきて、自分を調べるということよりも、事柄を進めるための打ち合わせや事の良し悪しの方に重点が置かれるようになっていく。
そしてイズムが醸成されていく間もなく各地に配置され、新参画者の多い実顕地になって、心ならずも旧来観念での生活になりがちになる。酒屋が材料を仕込んだだけの醸成しきらないものにラベルを貼って店先に並べるようなもので、ヤマギシズムの形だけ言葉だけ取り入れて観念がもとのままというのでは先が見えている。むろん古参は醸成がうまくいっているということではないが考え方としてどうか。
 これではイカン、急激に増やしたらアカンとその当時もテーマにはなっていたのだがーーーー。
こちらが参画して欲しいと思う時に参画したい人が要るとは限らないし、少人数で苦労した頃のことを思えばやれる限りはと、手立てを考えて乗り切ろうと考えたか、或いは来るものは拒まずと割り切ったか。
 いづれにしても、急増させたのは受入側の意思あってのことで、定員の何倍もの乗客を乗せたことは適切さを欠いたと言わざるを得ないのではないか。
 一方これから乗り込む乗客は定員数を知らない訳だが、自分の意志で乗ったからには乗車規定を順守して、みんなで協力し合って最善を尽くしていこうとなれば方法はあったのではないか。

 結局はバブル的勢いにまかせて機首を上げ過ぎて失速し離陸に失敗、月界への旅は一時おあずけとなった形だが、見方を変えればここからが面白いところ、大事なところと観えてくる。
 結果を見て途方に暮れる人、これはアカンと全てを放ってしまう人、間違いの責任をひとに押し付ける人など色々あるが、こんな時こそ様々なことが表に出て観えやすくなる、得ようとして得られない貴重な機会に遭遇していることを認識して生かしていきたい。
 このような問題は本来試験場で取り扱うべきテーマで、ヤマギシズム機構では試験場で安全安定的なものを実証して、実生活に大きなダメージが及ばない仕組みになってあるのだが、試験場設置条件の調わない現段階としては、かつてない新しいことを進めていく実顕地自体が実質的に試験場でもある。
これまで進めてきた結果から何を学び取るか。この先、目先の表面的な事柄だけを変えて旧来社会に後退または同じ質の失敗を繰り返すか、この機会をチャンスに自らの中のヤマギシズムを見直し、本質的な間違いを突き止めて先へ進めようとするか経営センスの問われるところである。   (つづく)

【豊里実顕地 御所野茂雄】