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実顕地が伸展するには 【5】


私の中のヤマギシズム

実顕地が伸展するには 【5】

  
 これまで進めてきた結果から何を思い、何を学び取るか。こう問われたら各々の中にどんな思いが浮かんでくるだろうか。
 全人幸福を想い誠心誠意この生き方に懸けてきたのに何故こんなことに。
 楽しくやっていたらいいんじゃなかったのか?こんなことになるなら参画するんじゃなかった。
 進めてきたのは誰々で、自分が進めたわけではない。
等々一人ひとりの基の考え方により様々だと思うが、意識に上ってきた思いを見ることで己の立ちどころが観えてくる。
 因みに私の場合は、まさに青天の霹靂、これから実顕地はどうなってしまうのか。というものだった。それは単に学園問題や供給活動の縮小、実顕地を離れる人が相次いでいるというようなことだけではなく、正にそれらの進行しているさなかに、これまで実顕地づくりを推進してきたSさんが突然に亡くなったからです。

 Sさんは第2回の特講後ずっと山岸さんの側近的立場でこの運動に関わり、山岸亡き後の実顕地づくりを、ヤマギシズム理念面、イズム拡大面、産業・経営面等々実顕地運営全般を構想し、ヤマギシズム理解や経営能力の高い、ヤマギシズム一筋の優しい人だったと思います。私は参画以来ずっと建設設計担当の立場で関わってきたことや、各種研鑽会や日常の暮らしの中からそんなSさんを感じて、精神的に行き詰った時などは部屋を訪ねて思いを聞いて貰ったりしてきて、いつしかこの人ならと全てを委ねて頼るようになっていました。何が起こってもSさんが何とかしてくれると無意識の中に思い込んでいったようだ。

 そして夢想だにしなかったSさんの突然の訃報に遭い、先ず浮かんできたのは、これから実顕地はどうなってしまうのかというものだった。目指す目的地はとにかく歩いてさえいたらいつかは辿り着くかも知れない地上のどこかではない。それが月界(真実の世界)となれば相応の確たるものを必要とし、偶然に辿り着くことなど有り得ない所だ。Sさんに代われる人材は私には思い浮かばなかった。
 信頼し全てを委ねて乗り合わせた飛行機のパイロットが突然倒れた状態に遭遇し、参画以来伸びる一方の順風の道のりを歩んできて、事件や大きな失敗の経験がない私は、腹も無く先の不安にうろたえる外なかった。

 ある日生前のSさんにいつも通りに設計案を出して意見を求めたところ、「いつまでもひとを頼っていないで自分の足で歩け」というような意味のことを言われ、そうするものと思い込んでやってきた私は、ハトが豆鉄砲を食らったような、何をどう考えたらよいか思考停止状態に。ひとに厳しく当たるような人ではなかっただけに尚更ショックだった。そして私の立ち所の違いを示唆する言葉を遺して、間もなく突然に亡くなった。
 日常の生活はみんなで支え合ってはいるが、精神的拠所を失って途方に暮れた。ひとに頼っている自覚も無くやってきて、支えを失って初めて自分の足で立っていないことに気付かされ唖然とした。仕事も運動も研鑽会もテーマも全て用意され、用意してくれるのを待っている自分だった。ヤマギシズムの深奥など自分には知り得ないことだと決めつけて、自らその源泉を辿ることをせず、必要なものは用意してくれるものとして、おんぶに抱っこの、親の懐で我が物顔に振る舞う稚児同然の自分だったのだと思い知らされた。

 世の中の様々な主義主張はもとより、ヤマギシズム同調者の寄り集まりであるはずの実顕地内に於いてさえその解釈は人それぞれであり、考え方に大きな違いがある現実の中で自分はこの先どんな考え方に立ってやっていくのか、どこに立ってやっていくことが実顕地を造っていくことになるのか、分かっているようでも確信が持てなかった。これからは全人幸福社会の成り立つ根幹となっているものを自らの内に確立し、自らの足で立ってやっていかなければならない。

 Sさん亡き後の村では、考え方の違いなどから村を離れる人が続出していることもあって、程なく有志で実顕地造成研を立ち上げることになり、それに参加させてもらった。実顕地を造っていくということは何をどうしていくことかなど、皆で目的目標を確認し、自身の中でもこれまで描いてやってきたことを再確認して、とにかく奈落の底までも一体でやっていくことだと確信して心新たに再出発することができた。

 これまでヤマギシズム学園や実顕地生産物が世の中の流れの波に乗って実顕地が急激な規模拡大を遂げてきたが、その押し上げてきた力が返す波に転じて脆くもくずおれる結末を迎えることとなった。この事から何を学ぶか、今後に於いて同じ失敗を繰り返さないためにもその原因を見出して、ムダ事や遠回りして時を浪費し、手遅れにならないように目的地に向かう皆が通れる道をつくり、共に手を携えて、歩みは遅くとも一歩一歩確実に前進するいき方を取っていきたい。

 かつて実顕地の規模拡大は急速に進んだが、ヤマギシズムの拡大はどうだっただろうか。新参画者や学園生が急激に増えることで、住居や種々の施設の建設に追われ、産業や供給の拡大、各種行事の大型化など次々にやることが増えて、目先の事柄を進めることに追われる毎日になっていた。目に見えて拡大発展していく実顕地造りはやり甲斐があり楽しみではあったが、日々やっていることがどれだけヤマギシズムの実践になっていただろうか。
本当に自分のやりたいこととしてやれていただろうか。
目的に向かって心一つでやれていただろうか。
日々の行為の一つひとつが目的と直結することを意識してやっていただろうか。
どれだけその意識を高めていこうとしていただろうか。
 その意識が無かったわけではない、そこをやることだとして取り組んできたつもりだ。だが事に当たってグラつく事実はまだまだイズムの本質に達していない証しなのだろう。物や事柄で人を寄せるのではなく、イズムの人間性に惹かれて寄って来るのでなかったら本物の実顕地とはいえないと思う。

 かつて基本研を始めた当初、実顕地が砂上の楼閣とならないよう各自の中にイズムの基礎をしっかりと築いていこうと研鑽してやってきたが、急激な規模拡大は根の充実を待たずに枝葉を繁らせ、バランスを欠いた肥満体は自らの内に障害を生じ、自滅の道をたどることとなってしまった。
 私達がやろうとしているのは、自分の為に他を侵す考え方やそれを助長するような今の社会に根を張ることではない。古来より誰もが願ってきた、仲良く楽しく暮らせる社会、即ち「ヤマギシズム社会」を実顕地という空間に顕現することだ。世の中の受けを狙うのではなく、自分達の目指す本当の生き方をしていれば、ひとは必ずや受け入れてくれるはず、というスタンスでいきたい。

 それには先ず、見た目よりも味、その中身「われひとと共に繁栄せん」とするヤマギシズムの精神、在り方に依ることで、全人に受け入れられるのは真実なればこそであろうし、真実の行いこそが全人に通じ、全人が一つになれる唯一のいき方なのだと思う。古来より数多の宗教等で言い古されてきた考え方だと思うが、宗教の恐ろしさは、我こそが絶対だとする決めつけを持っていることで、それが元で対立し傷つけ合い、心底の願いに反する結果を齎している。自分が正しいとして幅っていることに気付かず、他を侵す浅ましさ、愚かさに気付かないのだろう。宗教に限らず私達の日常の中に旧来観念の宗教的な考え方から無意識のうちにこうした幅る行為をしていることも多々あるのではないだろうか。
 真実の生き方を知り、旧来観念を払拭しない限り本当の仲良し社会は招来しない。

 実顕地造りとは、実顕地の真の価値を知り、その構成員の一人ひとりが真の人となって、真実の世界を顕わしていくことに他ならない(ゴールインスタート)。それ故に研鑽学校では真っ先に公人完成課を修めることとしているのだと思う。旧来観念を見直し、真実の観える観念に転換して真人に生まれ変わり(ゴールイン=目的達成)そして何ものにも縛られない、自由に生活できる空間として用意された実顕地で、かつてないおとぎの国のような生活がスタートする手筈になっているのです。つまり、真の人に生まれ変わることがゴールインであり、そこに至ることで目的は達成されたも同然なのです。あとは既に用意されてある真の人間向きのイズム社会の仕組みに乗って、更に快適に豊かになっていくように向上発展させていくのみの快適一色の生活が子々孫々に亘って続くのです。

 設計図を手にしながら未だ成し得ないのは、要点を押さえ、そこに至る道筋が描けないからなのだろうが、その前にもっと問題なのは事の重大さが観えない、ヤマギシズムの真価を見損なっている、或いは実現する確信がもてない、ということを放置していることではないだろうか。今の世界中の混乱している状況を前に、ヤマギシズムが如何に待たれているかを思えば、一秒たりとも留まってはおれないと思うのだが、これを進めるためにはその意義・価値を知って、ポイントを押さえそこをやろうとする気持ちにならなければ始まらないことでもある。

 ヤマギシズムが世に出て、農業養鶏の形で進められてきたときも、実顕地になってからも、事柄に重点を置いたところは必然的に脱落していった。山岸さんは始める前からそうなることを懸念して様々に手を尽くしてきたようだが、重く受け止める人がなかったのか、方法が適切でなかったのか、今日に至るも運営面に於いて肝心なところに重点が置かれていないように思う。
 養鶏書では(技術20+経営30)×精神50と精神面の重大さ強調し、実践の書では、幸福社会を成り立たす方法として三つの案を挙げながらも、最も肝心なものとして一案を特記している。
 一つは、その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと。
 今一つは、他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くこと。
 他の一つの方法は有り余って保有していることの、無駄であり、荷厄介になる程、広く豊富にすること。とあり、この三案を併用すべしとするが、他の二案は欠いても第二案は外すことは出来ないとしています。
 言い換えると、界を定めなくとも、たとえ物がなく貧しくても、幅る辱しさに気付いて、独占に耐えられない、人としての情がそなえられてあれば温かみが滲み出て、幸せな気持ちで仲良く暮らせるということでしょうか。
 現象は元の心の現れ。物や形に現れる考え方の基の見直しこそ最重要課題として実顕地を経営することではないだろうか。そうしたいのは山々だがそれを阻んでいるものがある?としたらそれは何だろうか。     (つづく)