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ヤマギシの村づくり3-(2)


    ヤマギシの村づくり3-(2)

    実顕地づくり研がきっかけとなって連鎖反応

    供給の原点は、魂子(たまご)にあった

    ちょっと面白いからやってみようと

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「実顕地一つの実動」の年が明け、早いもので1ヶ月です。
1月4日に内部川で開かれた、「新春実顕地づくり出発研」には全国から110名もの人達が一堂に会し、名古屋にファームを、という新たな展開を垣間見て出発してきました。
それから3週間後の1月26日には、美里実顕地での「豊里・名古屋ファーム決起集会」に、三重県地区はもとより、飯田や加賀からも、200名を越す人が駆けつけ賑わいました。  
ひとりひとりの言葉から、楽しみな気持ち、チャンスにしていきたい気持ち、意気込み、そして何より境なく一つでやっていく心、元を大切にしていく心が伝わってきました。今は目に見える形は何一つ無いですが、無いからこそ、ひとりひとりの中にファームが観えてくる集いとなりました。
聞くところによると、今からちょうど40年ほど前の、適正規模実顕地構想の中に、「今の社会にとって玉子より何よりさきに生産し増産し活用者に届けたい『われ、ひとと共に繁栄せん』とする心のふくまれる魂子なのです。」(1975年11月けんさん紙)という一節があるそうです。40年前も、今も、これからも変わらぬ供給活動の原点は「魂子」(たまご)ではないでしょうか。

先日、春日山の連絡研で、全国実顕地づくり研・調正世話係編に参加した人から、「日頃、現象面をどうしよう・こうしようと考えていることが多いことに気付かされ、もう一つ前の元のあたりを大切に、一緒にやっていくとはどういうことか日々のなかで探っていきたい」と様子を交えた話が出されました。
暮しの中でも、例えば今期から始まった着付け研で、メンバーと寄ったり、衣生活の人たちと話したりする中で、何があっても一緒にやっていくことをやりたいんだな、と思えてきたことが大きいです。ともすれば、着付けが上手にできるようになることや、段取りよく進めていくことを目的にしがちな私達が、心していきたいところであり、全てに通じていくことでもある気がしています。
今期は、今までの春日山調正所運営研から、そこでの役割りの一つ、実顕地生活の運営面は、毎日の連絡研や各種世話係研へ移行し、心を深めていく機会として、毎月1日に仲良し班メンバーみんなで「村づくり出発研」として一堂に会し、元を探り、つなげていける研鑽会を創っていきたいと描いています。

年頭に、新春実顕地参観を企画し、私達が暮らしている村の中を1時間かけて回りました。
今年は何と言っても、バイオマス発電が目玉です。1年前の参観で、夢を語られたことが実現に向け昨年末に着工し、いろいろな想定外のことも起こる中、何度も変更したり、別海から密にアドバイスを受け進んできている様子を聞かせてもらいました。「参画してからずっと同じ感じでやってきて、いろんなところがどんどん古くなってきて、もっと新しいことにチャレンジしたり、そういうなかでもっと勉強していきたい」という言葉が印象に残りました。
また、酪農部では「伊賀地域クラスター協議会」で地域の人たち(米作り・伊賀牛農家・林業など)と連携しての、新規事業案に伴う構想を聴かせて貰いました。クラスターとは、ブドウの房のように繋がり群れになっている意味だそうです!「考えることがいっぱいだけどみんなワクワクしている」と酪農部の人が出すと、そんな気持ちがひとりひとりにひろがっていった様子を思い出しました。
「ちょっと面白いからやってみようと」
明るく楽しく村づくりをすすめていきたいです。

春日山実顕地研鑽部

2015年春日山研鑽テーマ

2014年春日山研鑽テーマ

2013年春日山研鑽テーマ

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コメント

  • 柳 順(春日山)

    今回の三重県地区実顕地づくり研は、1・2班合同でしました。
    テーマは、「供給の原点は、魂子(たまご)にあった」で、「魂子」の資料を使ってやりました。
    まず始めに資料を読んで出し合いました。現在または過去に配送や予供に行ってみてや、豊里ファームでやっていて思うことなどが色々出される中、私は(以前供給所の配置だったこともあるのですが)供給の方には頭がいかず、資料の言葉が、今の私に突き刺さるというか、入って来ました。

     「真に必要で価値あるものは、求めるものと応じるものと必ず全面一致するはずのものであり、・・・・」
     「玉子の生産にさきんじて生産されつつある<われ、ひとと共に繁栄せん>とする心がそれであり、・・・・」
     「この魂子を作る場こそ、真の人間への成長の<業場>として最適な環境であるゆえんです。」等々。

    日々の暮らしの中で、職場で、どれだけ私の中味が<ひとと共に繁栄せん>となっているのか、あらためて問われているようで、自分にとって良い機会となりました。

    豊里ファームに来ているお客さんが、「お肉は○○屋はやめて、全部ここで買うことにしたわ」と言っているのを聞いて、○○屋さんのことを思うと、「交互に買いに来てくださいね。」と言ったと、出している人がいて、その人のなかには玉子の生産に先んじて「われ、ひとと共に繁栄せん」とする魂子が生産されているのだなと思いました。
    比較するわけじゃないけれど、(比較しているかもしれないけれど)真の人間への成長の「業場」として最適な環境を用意してもらっているのに、私はまだまだだなぁ。

    一体の心の含まれる魂子の生産をしたいと思い続けながら毎日を送りたいと思いました。

    研鑽会が終わった時に、隣に座っていた老蘇さんが「今日は早く終わったんだな。」と言ったので、「いいえ、予定より数分過ぎていますよ。」と言うと、「ああ、面白い研鑽会だったから早く終わったような気がしたんだな。」と言っていました。そんな、楽しい研鑽会でした。

  • 井口義友(別海実顕地)

    柳さんおはようございます。
    なるほど、こころは体の中ではなくて周りにあるのですね、そうすると周りの人と心を合わせる、などは理解しやすいように思いました。

  • 柳文夫(春日山)

    [まちがっているかも知れないんですが   (魂=こころ)]

    解剖医が 人間の体を 刻んでも 

    「こころ」というものを みつけられないじゃあ ありませんか

    「こころ」がどこにあるかということ

    「ハート イコール 心臓」とか表現したり 

    右脳だ 左脳だ 海馬などと 脳の機能を 説明することは出来るのですが

    こころ そのものとは 別のものなんですね

    では こころ はどこにあるかというと 

    実は 身体の周囲(まわり)にあるんですね

    身体をつつむ 空気みたいなものなのでは ないでしょうか

    例をいえば 地球の周囲(まわり)にある 大気圏があるでしょう

    ああいったもの 地球という固まりはあるものの その周囲を含めて

    そう 大気圏を 含めて 地球と いわないと 生命体としては変でしょう

    それと同じで 人間のまわりに 魂(こころ)というものがあって

    その こころが 人間の 肉体的機能をつかって 

    そのひとの こころを あらわす道具にしている

    そして こころは そのひとに属するように見えて 

    実は 他のひととか いろんなものと つながった姿

    それが こころ なんですね

    ただ その こころが 不自由だと 身体を痛めたり 病気になったりするということもある

    そんな風に 考えると なにか とても 自然のような気がするんです

    仏像や キリストの像のうしろに 丸いひかりの輪とか 後背の飾りとかあるでしょう

    あれは 見える人が 見えたように 書いたような気がします

    あれは つまり こころを 画いたんじゃあ ないでしょうか

    溢れてくる愛 突き上げてくる想いなど こころが反応を呼び起こすんですね

    ちょうど 乳牛の乳頭を刺激すると 頭に信号が飛んで オキシトシンが出て

    おっぱいが張って たくさんのお乳が出てくるように 

    その人に合った カードが あるんでしょう

    こころが 身体をつかって 行動する 

    死んだら こころが 離れるとかいうでしょう

    死んでも 声が聞こえる とかもいうでしょう

    肉体が きいているのではなくて

    肉体の周囲(まわり)にある こころが 聞いているから 

    しばらくは こころが 肉体の周りで 聞いているということかな

    その人の 肉体から 離れた こころは しばらくは お休みをして

    こんどは新しい命に移り住んで

    一(いち)から その子と一緒に 「魂(こころ)」として 育ち合うような気がします

    その永遠の繰り返し 

    魂は ひとつだけ 

    いつも 一(いち)からだけど いつか 人類の 本当の文化が進んだら 

    三とか 五とか 十からとかの 出発が出来てきたら良いなと 思ったりします

    そうしたら 争いのない 社会が できるようにも思います

    こころが 身体の中にあるという誤解が 人類の発展を 阻んできたようにも思います

    地球も 人類も ひとつの樽の中 どうあがいても 樽の中のように思います

    やはり 学ぶべきは ひとつからの 出発ということでしょうか

    ひとつからの出発といっても 難しいかなー 

    まず 立とうとするところから 始めないと

    若い人や こころある人達に こんなこと 早く伝えないと

    そんなこと 思うんですよ 最近は