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ヤマギシの村づくり3-(4)


    ヤマギシの村づくり3-(4)

    旧態依然とした各種かたちを見直して、新学期

    その人がそうしたいからと、見て見ぬ振りできないもの

    人は晴れのち曇りがあって当たり前

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この春、全国から100名を越す子ども達が楽園村に参加しました。また春日山では、サッカー合宿の場として、90名の小・中学生を3泊4日受け入れる予定です。子ども達と暮らしてみると、毎日が新しく、日々ぐっと成長していくように感じられます。もうすぐ進級ということもあるのでしょうか。4月、子ども達は新学期、私たち大人達にとっても新学期といえるのではないでしょうか。

旧態依然とは「昔のままで、少しも進歩発展が無いさま」という意味だそうです。先日の村ネットに、こんな体験が寄せられていました。
『風呂の桶とイスは、ココ。ここにこうでなくっちゃいけんやろ。え!?
温泉での体験が,皆の日常の生活風景をボロボロと。あれ?あれ?
いつのまにか、ここはこうするモノ、これはこうシテオクモノ。
これは、こう。決め事となっていることに気がついて、一つの実例からボロボロ、ボロボロ剥ぎ取られていく』(「村づくり研in雄物川」から)

暮らしの中から、時の最先端、各地に拡がるヤマギシファームまで、全てに通じていくもの、まずは、寄ること動くことから始まるようです。

3月18日、一年間春日山で暮らしてきた幼年さんが元気いっぱいに出発していきました。
幼年のお姉さん、徳井みなこ子さんは「最初の頃は幼年さんに朝起きるよ、片付けるよと、声かけするのすら怖かったです。それは今まで私が、人が何をしていようがその人がやりたくてやっているからいいじゃないか、という考えで生きて来たので...」と振り返り、「10月の研鑽学校から帰ってきた時に、『みな子お姉ちゃん』って幼年さんが来てくれて、こんな私でも受け入れてくれていたんだなぁと、みんなで一緒に暮らしていくことの大きさを感じました」とこの一年の気持ちの移り変わりを、挨拶に代え紹介してくれました。

日頃、あのことはあの人がやりたいこと、これは私がやりたいこと、としている時はどこか味気なく境がある気もします。やりたいことが、どのようにみんなのものになっていくか、みんなの中にあるのかが、一緒に暮らしていこうとしている私達にとっての醍醐味でもあり、これからも大きなテーマとして続いていきそうです。

「納棺夫日記」を書かれた青木新門氏による講演会が、3月6日に春日山実顕地で行われました。当日、初めて実顕地を訪れ、参観し、講演された感想を、ご自身のブログに綴られています。
『ヤマギシズムの驚くべきことは、「無所有一体」の生活を信条として、その理想郷を実現すべく実践していることである。少なくともその具体的成果、即ち「顕現」がみられることである。その「顕」は、例えば晴れた日が急に曇ったりするように、放っておくと顕が隠れてしまう。そんな顕を持続するために「研鑚」を繰り返すことを取り入れている。見事だと思った。そして「目的が崇高であればあるほど、その手段も崇高でなければならない。なぜならば手段の集大成が目的であるのだから」と言ったマハトマ・ガンジーの言葉を思い出していた。』 ([新門日記]より一部抜粋)

特講で、本当の自分に出会い、「われ、人と共に繫栄せん」の生き方を。と実顕地でやっている私達も、日常の中では晴れもあれば曇りもある。「一つからの出発」に立ったはずでも、悶々とすることや、こだわり、執らわれることも往々にある。こんな曇りや雨の中からどう晴れを見出していけるのか・・・。
新門氏の講演で語られた、インドの聖地ベナレスでの全てを包み込み光り輝く時間や、元恋人の、私の全存在をありのまま丸ごと認めてくれている瞳。そんなすべてが溶け合っている世界、包み込まれている(=包み込んでいける)一つの世界に、おりに触れ気付いていくことではないか、そのために研鑽があるのではと思いを馳せています。今まで研鑽とは、より良いものを、一致点を見出すという現象面に目がいきがちでしたが、全く別のことのようにも観えてきます。「研鑽」する目的は何だろう。手段の集大成が目的になっているか?
そんなことが日々の暮らしの中で、和気藹々とやさしく簡単にできていけたら…。最近の村の動きをみてみると、そんなことができる予感がします。晴れのち曇った時こそ、「実顕地」の存在意義があるようにも思えてきます。

草木が芽吹き、萌えいずる季節、新しい自分で村づくりをしていきたいです。

春日山実顕地研鑽部

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